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イリュージョニスト

「イルカなど、消さない」と彼は静かに、断言した。
 ベッド脇の電気スタンドのような駅前のパブで、彼はベルギービールを飲んでいる。ピンク色の象が描かれているデリリウムという名の奇妙なビールの瓶だった。
 彼はもう一度言った。
「イルカなど、消さない」
 彼は満足げに、ビール瓶を傾け、ゆっくりと、ビール瓶の象ではなく、その不思議な文字をなぞる。
「デリリウム、というのは、せん妄状態の事だよ」
 彼は言った。
 私は彼に、再度問いかけた。
「本当に、イルカは、消さないのでしょうか?」
 彼は少しうざったそうに、煙を振り払うような仕草をして、ビール瓶を置いた。パブの中に満ちた、ぼんやりとした光、非現実的な空間の中で、ピンク色の象は瓶のラベルから抜け出して、今にも歩き出しそうだった。私は象が歩き出す様を想像した。ピンク色の皺のある身体、それ以外は普通の象と同じだ。前足を出して、後足出し、みしみしと、小さな足音を立てながら、橙色の照明で輝いたマホガニーのテーブルを歩きだす。私の方を見て、鳴き声も出さずに鼻を上げる。私はその小さな象に対して、何とも言えない親しみを抱く。しかし、私のこの人生がどういう方向に行っているのか、この象にもわからないのだろう。
「なぜ、私が、イルカを、消すと思うのかね?」
 理由が言えなかった。彼は五十代ぐらいの身なりの良い紳士で、私は三十代の若造だ。圧力を感じた。その年齢差や風貌の差以上の、圧倒的な差を感じた。
 まるで現実感がわかなかった。あらゆる事が他人事だった。彼は笑顔を浮かべていた。彼の顔というものが、まるで人工の皮膚でコーティングされたかのようなのだ。まるで、生きているという感触が無かった。瓶からはみ出してきた幻覚の象のほうが、まだ生き物としての存在感があった。息を飲んだ。もしかしたら、生まれて初めて、人間そっくりの人間と、話しているかもしれないのだ。
 私は、彼がこの街に来ると聞いた時は、少しだけ興奮した。彼はイリュージョニストというやつで、何でも消してしまう手品師のようなものだった。ビルみたいな大きなものですら消してしまう。世界中で人気で、ラスベガスでもショーを行っているらしい。
 この街は派手ではない。山手線の内側にあるが、それほど大きな街ではない。この街で何を消してくれるのかと、私は考えを巡らせた。古くて崩れそうになったビルを消してくれるのか、それとも、街の端に放置された廃車でも消してくれるのか、私は古くて役に立たないものを想像した。しかしすぐに、この街にあって、思い出深いものが消されてしまうのではないかと心配になった。ひなびた古い銭湯の煙突、それから、風情のある駅前のボーリング場、もしかしたら、このパブも消してしまうかもしれないのだ。パブのカウンターの奥には、大学生風の若い男女が一組ずつ、ビールが入った曇ったガラスの冷蔵庫、ワイルドターキー、フォアローゼスが古びた木の棚に並び、カウンターの上には逆さになったグラスがぶら下がっている。
 我々の頭上には、テレビが一台あり、どこか外国のサッカーの試合を放映している。歓声は響くが、音はほとんど聴こえない。
 彼のイリュージョンはこの街の、小さな区民ホールで行われる予定だった。大して大きくはない。二百席ぐらいのホールでステージの脇には、ビロード色のカーテンがあり、照明もまるで学校のホールのような安っぽさだ。大物である彼にはまるでそぐわないが、彼は嫌な顔一つせずに、役をこなすだろう。そして彼は、区民ホールから一歩も出ないで、指を鳴らすだろう。そして、音は、静まり返った区民ホールの中に、響き渡るはずだ。
 一度、私は彼のイリュージョンを見た事がある。
 ここの区民ホールのような小さな会場だった。確か山梨県の山奥にあった。たぶん築五十年ぐらいだった。なぜ、私がそんな山奥にある小さな会場で、彼を観ているのか、いまだに思い出せない。彼が指を鳴らすと、その音は反響に反響を重ね、私の耳に届いてきた。音は、今でも私の耳に、出口を見失った虫のようにこだましている。彼は言った。この街のあるものを消しました、と。皆さんにとって、大切なのかどうかはわかりませんが、たしかに消させていただきました、と彼は言った。
 客は少なかった。そもそも、こんな有名なイリュージョニストが、地方のまばらな客の前で、ショーを行っているのが信じられなかった。
 客たちが外に出ると、皆騒いでいた。靄で霞んだ山道が見えた。確かに、あれが消えていると、口々に言うのだが、私はその街の住人ではなかったので、何が消えたのかさっぱりわからなかった。とにかく、彼は何かを消したらしい。
 
 私は今から十二時間ほど前の朝に目覚めた。起きると、彼が何を消すのか考えた。彼が古き悪しきものを消してくれるかもしれないという、最初の高揚感はすっかり消え去り、今では私の思い出のつまったものを消してしまうかもしれないという危機感があった。
 今、私が住んでいる場所は実家ではない。三十階建てのタワーマンションの三十階にあるワンルームマンションである。
 私は最初からここに一人でいるような気がする。
 ベランダからは、街を一望できる。仕事は、パソコン一つで、いろいろな事業を行っている。それが本当に私のやりたい事なのかは、私自身もわからない。私はアイディアを出して、ソフトウェアを開発している。テクノロジーの力で、水を綺麗にするとか、温暖化を食い止めるとか、そういう類のものだ。世の中を便利にすると同時に、きっと様々な仕事を奪ったり消したりしてきたのだろう。だがそれは、仕方のない事だ。
 ベッドが一つ、ガラスのテーブルが一つ。そして、陽光が差し込む天窓が一つ。キッチンに行けば白い冷蔵庫が一つあり、昨日食べかけた。パスタの皿がある。私はパスタの皿に透明のサランラップをかけると、冷蔵庫を開け、中にしまった。
 今日は日曜日ではないが祝日である。ショーの日までは何故か落ち着かず、昨日も仕事を休んだのはよい判断だったと、私は思った。
 一度考え始めると、止まらなくなる性格だった。
 私は彼が消すかもしれないものを、頭の中に思い浮かべては、消していた。その過程で、過去に存在していて、もう会えなくなってしまった人々の事も思い出し、また消した。
 気が付くと、正午になっていた。
 外に出ると、十月の心地よい風が私の頬を撫でた。
 消えていた古い記憶がよみがえる。子供時代。青年時代。全ては消え去り、私の記憶からも消えていた。
 日光は街路樹の影をアスファルトに投げかけ、私の右隣を自転車が、音もなく通り過ぎ、茶色く変色した葉が音も無く落ちていく。
 私は近所の小さなフランス料理店に入り、ガレットを注文した。私はこの街で育った。思い出深い建物も多いが、それほど深い人間関係は築いてこなかったように思える。私は四角いガレットを食べながら、ある考えを意図的に避けていた事を自覚した。
 私はここ数日、消されてしまっては困るものを頭に思い浮かべていたが、それは、本当に消されて困るものではない。この街には、私が本当に消されてほしくないものがあったのだ。この街の何かが消される以上、それが消される可能性は、認めるしかない。
 私はガレットを食べ終えると、駅前のパブに向かった。
 駅前は、にぎやかだった。何せ、世界的なイリュージョ二ストがこの街にやってきて、明後日、日曜日にショーを行うのだ。
 顔を真っ白にぬってパントマイムする人や、風船をもっているピエロもいた。子供も大人も、たくさんの人々がいた。私は人ごみをかき分け、パブに入った。
 パブには、昼間から酒を飲んでいる人もいた。私はカウンターに座り、ビールを一杯飲み、勘定を払うと外に出た。
 私は少し感情的になっていた。あれ、が消されてしまったら、私はどうなるのだろうか、と。私は店を出ると、ほろ酔い状態のまま、コンビニエンスストアに入った。そして、安くて強いアルコール飲料を買って歩きながら飲んだ。酔いながら歩いていると、少しだけ気が楽になってきた。
 
 消してほしいものがたくさんあった。もしかしたら、自分自身を消しほしいのかもしれないと、考えたりもした。
 
 街をぐるりと回ってきて、吸い寄せられるように、またパブに戻ってきた。その間の記憶はまるで無い。
 だいぶ陽も落ちていたので、店の中は仄かな光が満ち、自分の中の、はっきりとしない心の中に入っていく気分だった。カウンターの奥には、昼間と変わらず、一組の男女の大学生がいて、まるで死人ような目をしていた。私は店の奥へと視線を移した。そこには、静かに飲んでいる男性がいた。
 私は目を疑った、その人は、この街で何かを消す予定の、世界的なイリュージョニストなのである。
 客はカウンターに二人ほどいた。私はどうして、誰も気づかないのだろうと思った。
 私は落ち着かない気分を、落ち着かせようとした。デリリウムというベルギーのビールと、フィッシュアンドチップスを注文した。揚げ終るまで、しばらく時間がかかるのだが、私はその場で待った。すぐに香ばしい香りのするポテトと、真っ赤なケチャップ、パセリ、白いタルタルソースがかかった白身魚のフライが灰色の英字新聞に包まれて出てきた。新聞紙のフライと接した部分は、油で濡れ、輝き、裏面の文字が表側の文字と重なっていた。私はそれらを手に取ると、彼のテーブルへと行った。
「あの、すいません。もしかして……」
 私がつぶやくと、彼は笑顔を浮かべた。笑顔を見て、少しだけ不快に感じた。人工的で、どこか尊大なものを感じたのだ。
「そうだよ」
 彼は答えた。
 私は滑り込むように席につくと、興奮しながら、ビールを飲んだ。偶然にも彼と同じビールだった。二頭の象は、テーブルの上で向き合って並んだ。私はポテトを口に運びながら、彼を見ていた。感激が不快感を消した。
「明後日は、来てくれるのかな?」
 彼が訪ねたので、私は、もちろんと答えた。
「どうして、誰もあなたに、気づかないんでしょう?」
 私が訪ねると、彼は少しだけ首を傾げた。だが、私にはそんな事はどうでもよかった。他に聞かなければならない事があったのだ。
「ひとつ、聞いてよいでしょうか?」
「何だね?」
「あなたは、何を消す気なんですか?」
 すると彼は、ビールを吹き出しそうになりながら、首を振った。
「それは、ショーまでのお楽しみだ」
 私は彼に対して質問を続けた。
「消してほしくないものがあるんです」
「そうなのか」
「お願いすれば、あなたは、それを消さないですよね?」
 彼はまた首を傾げた。私は下を向いた。
「言ってごらん、それは何だい?」
 話を聞いてくれのかと、私は安堵した。
 勇気の次は、切実な感情を出さなければならない。
「イルカです」
「イルカ?」
 彼はまた首を傾げた。
「この街に、水族館など、あったか?」
 彼は半笑いで宙を見上げた。そのやや大げさな態度からは、この街の事は何でも調べたという自信が伺える。お前は全てを知っているわけではないだろう、と私は心のうちで呟いた。自分はこの街で生まれ育ったのだという自負が、私の中から湧きあがった。だが、交渉事にこの感情は不要だ。
「とにかく、いるんです」
「なるほど」
「で、それだけは消してほしくないんです」
「それは、君の中での……」
 彼はもどかしそうに宙に目をやり、手を回す。
「……つまり、何らかの象徴か? 大切な何かの……」
 私は何も言えなかった。もう、何年も会っていない。イルカそれ自体が大事なのか、彼が言うように、何かを象徴しているから大事なのか、私にはわからない。
「まあ、そんな事はどうでもいいですよ」
 彼は言った。
「……言うとおりにしよう」
「え、どういう事でしょうか?」
「イルカなど消さない」と彼は断言した。
「本当ですか?」
「本当だ」
「なぜ、なんですか?」
「消してほしくないんだろう?」
 少し私を馬鹿にしたような表情に見えたが、どうでもよい事であった。私は思わず、ビール瓶を彼の飲んでいるグラスとぶつけた。
 しかし、彼の笑顔を見ていると、不安になった。
 彼は、私の言う事は理解したと言わんばかりの表情をしている。
 カウンターを見ると、二人の客は背中を丸めてビールを飲み、カウンターの奥の男女は、無表情で我々を見ている。
 私の表情はどうなのか。私は笑顔だった。
 彼が、イルカは消さないと言ったのだ。ここは笑顔が正しいのだ。
 そういえば、ビール瓶から這い出た象はもう消えていた。さっきまでは、あの架空の生き物が、一番生き物らしく振る舞っていた。
「そういえば、山梨県で君を見た」
 彼が言った。記憶力の良さに驚いた。決して客の数は多いわけではなかったが、私の事を覚えていたのだ。
「当時から、この街に住んでいたのかい?」
 私は、頷いた。
「あんな山奥に何の用だったんだね?」
「仕事か何かだったんでしょう」
 私は、なぜ私があの場にいたのか、さっぱり思い出せない。
 すると、彼が笑った。
「君は記憶を消したんだね」
 そして彼は言った。
「僕らはみんなイリュージョニストだね」
 全ては無であり、無に帰る。

 私は、彼に、必ず行く、とだけ言って、パブを出た。肌寒い十月の空気の中を泳ぐように、夜の街を彷徨った。家とは逆方向、繁華街の方に向かった。
 気が付くと、目の前には地下鉄の入り口があった。
 私は階段を降りた。
 私の顔は、蛍光灯の白い光包まれた。緑色の路線図が見える。コンクリート造りの階段をゆっくりと下りた。
 電車が通る音と、それが引き起こす風を頬で感じた。エスカレーターで下へ、下へ、地の中へと降り続けた。
 下に降りるほど、私は深い水底に落ち込む小石のように、ゆっくりと落ち着いていく。降りつづけると、すれ違う人たちも少なくなっていく。初めて見るのに、何処かで会ったことがあるような懐かしい雰囲気の人たちが多い。その傾向は、下へと降りるほどに大きくなっていく。初対面であるのに、私に声をかける人も何人かいる。
 顔にモザイクがかかったようにぼんやりとしているが、目を凝らせば、見覚えのある顔ばかりだった。私はかなり下まで降りた。地上の喧騒、振動は、いくら皮膚の感覚を敏感にしても、何一つとして感じられなかった。
 私は階段を降り切り、プラットホームに出た。
 水音が聞こえる。音は、反響し、私の鼓膜に入り込んでくる。
 プラットホームの白いタイルには、様々な場所にヒビが入り、そこから地下水が染み出していて、線路は水没していた。
 蛍光灯の光で水の表面と、水没した線路の銀色の部分が、仄かに輝いている。
 パネルに入った路線図もあった。
 緑色の路線は複雑で、まるで複雑に絡み合った海藻のようだった。駅名の文字も、読み取れない。
 私は、私がいったいどこにいるのか分からなくなった。
 生物が立てる、複雑な水音がした。線路を見ると、洞窟のように真っ暗なトンネルから、イルカが泳いできた。
 私はイルカから発せられる存在感だけを、感じた。
 イルカは方向転換すると、また真っ暗なトンネルへと消えていった。どうやら、まだイルカは消えていないようだった。
 それもいつまで続くかわからない。あの男が、このイルカを消さないなどと、どうして言えるだろうか。

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