沈黙するのは誰か? 『沈黙』 遠藤周作
遠藤周作は後年、自身の信仰に関する思索について「だぶだぶの洋服を和服に仕立て直す作業」だと述べている。旧制中学在学中にカトリックの洗礼を受けた遠藤周作は、生涯「日本人でありながらキリスト教徒であることの矛盾」という葛藤を抱え、思索を続けた作家であった。
『沈黙』においても彼の抱えた葛藤がその根本にあることに疑う余地はない。「神は果たして存在するのか」、「存在しているならば何故、苦しむ人々を前に沈黙するのか」、「日本国の民衆、彼らにとっての神とは一体何であるのか」という日本国人である遠藤周作の根底の問いが、棄教の師フェレイラの消息を追って、島原の乱の直後、キリスト教徒への弾圧と迫害が最も激しく吹き荒れる日本国へとやってきたロドリゴという司祭の目を通して語られる物語のかたちを取って発せられるのだ。
この作品には、全体を通していくつもの《沈黙》が訪れる。沈黙するのは、〈主=神〉だけではない。ロドリゴと出会ういく人もの信徒たちは、〈死〉を伴う大いなる絶望を前にして、威厳に満ちて黙する。その沈黙は、ロドリゴや、徹底して「弱か人間」として描かれるキチジローの饒舌と対照的に、一切の喘ぎや呻き、苦しみの言葉すらも呑み込む徹底的な潔癖さに貫かれた悲痛なまでの沈黙である。十字架に縛られたモキチの最後は(呻き声のようなパライソの歌と共に訪れる)、まさにこの種の沈黙に彩られている。これらの沈黙は、一体何を意味するのだろう。
人間が生きつつある背後には大いなる分断ともいえる痕跡が残る。人間は言葉を媒介にした認識によって生みだされる大いなる分断のなかで、人間としての不安定な輪郭を保ち、分断され対象化されたものらと関係性を築くことで生き長らえる。しかしながら、それらの存在のあり方は、常に不安定であり、常に崩壊の危機に晒されている。それは、人間の素朴な本性の現れであり、同時に人間的な「弱さ」の源泉でもあるのだ。
ロドリゴやキチジローの抱える「脆さ」や「弱さ」の根もここにある。しかし、この人間的な「弱さ」を、〈死〉を伴う大いなる絶望と不条理の静寂を前にして悲痛にも発せられる問いかけを、誰が責め立てることができようか。むしろ、そこで考えるべきなのは、信徒たちの威厳に満ちた《沈黙》がこの人間的な「弱さ」に相対するとき、何を提示しているのか、ということであろう。
そこで提示されるのは、人間的な「弱さ」を根にもつ人間的な「強さ」の表象としての《沈黙》である、と言ってみたい。それを作者は、作品全体を通して表現したのではないか。
人間の一切にとっての解答の不可能性に覆われた不条理の問いを突きつけられたとき、自らの存在の不安定さを認め、その不安定さと「弱さ」の根を見つめなおし、人は沈黙することを選びとる。その沈黙は、能動的な選択によって言葉の誘惑を排し、言葉による大いなる分断からの恢復をもたらすことで、人間の苦しみや喜びといった素朴な感情のそのものを分け合い/分け持つことを可能たらしめるものである。棄教後のロドリゴの消息が、彼自身の手紙や報告書ではなく、オランダ商館員ヨナセンの日記と切支丹屋敷役人日記で表現されているところに、真に、日本国人たちの中に生き、そこに暮らす人々の苦しみや喜びを分け合い/分け持とうとする、彼の、人間的「弱さ」を根にもつ人間的「強さ」に彩られた《沈黙》を見る。
人間的な弱さを認め、徹底してその弱さを乗り越えようとする姿。そこにこそ、徹底的な潔癖さに貫かれた悲痛なまでの沈黙が訪れるのである。それこそが人間的な「強さ」であり、真に人間的な威厳の在り方ではあるまいか。《沈黙》を通し、大いなる分断を超えて人間的繋がりを取り戻す。そこに我々は、religion〈宗教/ラテン語のre-ligāre(再び-つなぐ・結ぶ)を語源とする〉のもつ本質と、真に人間的な威厳を確認するのである。