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よく「うちの職場は変なヒトばっかり」と言うヒトの話

よく「うちの職場は変なヒトばっかり」という人がいる。自分の周りには多くいるように感じるし、誰の周りにも少なからず居るのではないか。変なヒトばっかりなのは決まって「職場」で、「クラス」や「街」はあまり聞かない。昔、大学時代は、「ゼミ」より「サークル」が多かった。この感じがどれだけ伝わるのかはわからないけど、とりあえず読み進めてほしい。

なぜ職場にヘンな人が多いのか。否、正確には、職場に身を置くときに最も「変な人が多い」と感じるのはなぜか。私はそれは、包摂と排除の問題だと睨んでいる。



職場のグループは、学校の1クラスより小規模なところがほとんどで、せいぜい20名ぐらいだろうか。そして、グループで一つのプロジェクトに取り組むため、グループには団結が求められる。

団結とは、外部の人間を排除することでもある。団結のためには、団結すべき人間とそうで無い人間の区別が、つまり内と外の区別が必要となる。内の人間の団結には、常に外の人間が必要になる。

「うちの〇〇には変なヒトばっかり」と人が言うとき、発言者の〇〇への帰属意識が潜んでいる。さらに言えば、その帰属意識が高まったときに、この言葉は発せられる。「うちの〇〇には変なヒトばっかり」と誰かが言うとき、その彼は〇〇に所属できていることが嬉しいのだ。



ここ数年、社会では「多様性」という言葉を頻繁に耳にするようになったけれど、この言葉には排除の論理が潜んでいる。どういうことか。

たとえば「多様性」という言葉がよく使われる文脈として「性別」の議論が挙げられるけれど、どのような性質のことを「性別」と呼ぶのかには疑問が残る。LGBTQという言葉で男女以外のカテゴリーは増えた一本で、ペドフェリアや、ある種の変態性のような性質は、性別ではない異端物として排除されていく。

「多様性」という、一見全てを肯定するような概念の中にも、排除の運動が隠れている。「多様性」という言葉は、「変なヒトばっかり」的な「個性の豊かさ」を想起させるけれど、どのような性質を「多様性」として認めるかという部分には、排除の政治が必ず存在する。

この排除と包摂の論理の先が行き過ぎれば、全体主義的な息苦しい世界があるということを、我々は考えなければならない。「多様性」という言葉に潜む「おめでたさ」に、喜ばされてはいけない。

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