転向と再転向『我々の死者と未来の他者』大澤真幸

宮崎駿の転向論。これは、この本で吉本隆明で論じられる事、そのバリエーションの問題だろうか。

90年代は特に始まりから不穏な雰囲気が、とりわけ日本列島をおおうのだが、宮崎は革命の終わりという意味で、ハイではあった。

何らかの変化に対して、敏感であることは、その好奇心と共に過ぎ去りしものに郷愁を感じ過ぎてしまう。これはエレジーという語ではない。ただ単に過剰なものの事である。

そこで、宮崎は転向を宣言する。

彼の時代としてのマルクスに区切りをつけたものだが、やがて再転向へといたる。

私のマルクスは、(学としての)理論を伴わないものだったから、私が転向するという事それ自体が存在しない。だから、私は、そのまま、マルクスである。

(これは、師匠高畑勲を意識したものだと思われる。正と「反」になる。それが師匠と「弟子」である。)

あたかも入口が出口、出口が入口であるかのような、スコセッシ『アフター・アワーズ』としての『千と千尋の神隠し』は、その構造を一部を拝借しているように思える。この2つの映画は、異世界について、労働にまつわる外部(ニューヨークの夜)と労働にまつわる内部(千尋の湯屋)が描かれた作品である。

スコセッシと宮崎の関係は大なり小なりあるが、どの程度考えるのが良いだろうか。魔女の宅急便は、スコセッシの構造を拝借した上で映画そのものに落とし込む、その顕著な例だった。

言い換えると、構造にこだわり過ぎた映画を求めると、映画は得られない。

これは『君たちはどう生きるか』では、どのように再現されているのか。そして、哲学思想では、同じような傾向が見られるのか。

4500文字。長め。


脱構築の書物『我々の死者と未来の他者』

大澤真幸の読者というのが非常に分厚い層としてあり、この本についても、その対象に向けられた深いメッセージは、もれなく難解である。そういえる。

とりわけ現代思想から社会学という流れを、偉大な思想家を継承している。

もちろん見田宗介には、大澤は弟子として並々ならぬ思い入れは、あるはずで、『自我の起源』(真木悠介名義)は、ドーキンスのミーム(うつわとしての遺伝子)についての考察は、社会と人間について二項対立を、端的に示している。

これは、人間が、もれなく現代思想的な存在であると一般化されるようなものとは別に、いささか強引に、社会学をオモチャ箱の中にある懐かしさに見いだす。あるいはトラッシュ(ゴミ箱)の中に。

『我々の死者と未来の他者』では、鬼滅の刃が持つ問題系(大正元年)が重要なのは間違いないし、ナショナリズムの概念を用いて日本論を展開するのは、よきことだ。

一例を挙げるなら、社会学の問題系が、ナショナリズムを国民国家として、創生する概念は、日本では例外扱いとなっている。本書では、近代国家の枠組みが、終戦(戦前・戦後)によって対応関係が失っていることを考える。

これに遡行して、捉えておくべきは、もちろん歴史的に成立する4ステップ(柄谷行人)を、宗教社会学(呪術から世界宗教)にみる事も出来るが、Aからアルファベット順に並べたクライマックスのDは、順列はなく、ループしないという意味でも超越論的だ。

(柄谷に対して、ジジェクのパターンだと、虫の知らせ、つまりイデオロギーに先行して察知される目覚めに敏感であるという視座がある。この点で、大澤は事後に形成されるものを、出来事に先行した何かを、同時に考えなければならないという脱構築となる。)

遡ることによれば、イデオロギーが、そこにあるという、まさにそこが意識される。

これは過去についての予期は、パラパラ漫画の、一コマのように、全体では説明出来るものが、部分では何も説明出来ないということなのか。

イデオロギーについての考察は、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』のような全くのフィクションが流通するという事実だ。

しかしながら、どこまで遡及しても、そのコアの部分、何々こういう理由で、権力はイデオロギーとして機能して、それは、こうこうこうだからというボダンの掛け違いでも、政治理論は、ロックでも20世紀のロールズでも、なし崩し的に進撃し、ノーマルになるべくは、社会でなく人間とまで言わしめる。

これはこれまでの思想家が、間違っている訳でもない。素朴に願いは良き社会だった。

足もとにリンゴは落ちているが、その上のリンゴの木は、目には見えない。そういう事なのだろうか。

(言い換えると、星の王子様の飛翔として、航空機は旋回し、同時に静止している)

ウェーバーの強引な権力の定義も、シュミットのようなトートロジーも、何ら意味を持ちえないものとして理解されるのか。

要は、批評にみられる権力の構造は、その確かなものを、どこに見いだすのだろうか。

主著とも思われる『<世界史>の哲学』は、近代篇1の冒頭では、カール・マルクスの印象的な言葉が紹介される。それをタイトルにした本がある。

吉川浩満『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』。

これは、どの系について、問題意識を共有しているのか。

「それから」として『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』

この本に収録されているのは、ホスト役を吉川さんが行って、大澤さんと千葉雅也さんの対談(鼎談でもある)です。

千葉さんは、吉川『理不尽な進化について』を、何でもかんでもビジネスになった社会に対する強烈な批判の書と評します。

この本では、ドーキンス進化論に対する、グールドの批判について、敗者としてのグールドを検討します。

大きなテーマとして、絶滅があります。

千葉は「現状のグローバリズムが、明日の午後、突然崩壊することだって起こりうる。」と発言して、絶滅をカンタン・メイヤスーの終末論に関連させます。メイヤスーは、デリダとレヴィナスに続くものと定義します。

それからメイヤスー『有限性の後で』論点は、相関主義批判(カント以降の近代哲学に対する大きな脱構築)と、偶然性の必然性の2点に集中します。

これについては、大澤は、メイヤスーの断絶している部分は、問題意識については合意します。(神的な意味で)復活よりも(事後的な)絶滅という議論の方向性です。

ここでの大澤の論点の一つに、「未来の他者」が挙げられ、倫理の中で、どのように哲学思想が出来るかという、問題意識を掲げます。

ここで『我々の死者と未来の他者』につながる訳ですね。

はじめは、大澤さんの問題意識は、このタイトルから想起されるのはメイヤスー的なものに転向していたのかと思いました。しかしそれよりも別の問題系として、思考を進めていたのだと理解しました。

カントの超越論的な問題意識を、脱構築を全面に出しているという意味では、この対談での経験が生かされているような感覚があります。

この場合は、一見すると、メイヤスーから距離をとっていると思われる大澤(ドイツ的)が、この対談で議論のプロセスと合意出来る部分を、更に敷衍(ふえん)しているようには感じます。

大澤は、ジャン=ピエール・デュプティを念頭に置きます。そこから、彼のカタルシスを、絶滅や終末論に結びつける形で、様々な思考の流れを、まとめている。

これを目的として、吉本隆明の転向論を、謝罪の本質(デリダ)に関連付けた上で、村上春樹の小説を検討していきます。

『ねじまき鳥クロニクル』残虐描写は、なぜ必要なのか。井戸からつながるものは何か。村上論として納得感がありました。戦後について、深い次元で文学しているという点。偶然かもしれないということ。

井戸の例えは、フロイト、イドとしてというのが、映画一般においては、ノーマルかもしれない。

井戸を、そこに潜むカエルと見なすかもですが、タコつぼだとしたら、井戸は地下水脈を前提とした入口/出口だとしたら染み渡る何かがあるはずです。

(地下水脈は、水源としては、上/下の相対する位置情報を免れている。それは地下水脈の中に、四季を見いだすような免れかもしれない。少なくとも定位しない。)

宮崎駿の転向論。虫の知らせとして、リサイクル。

オチ。メーキングオブ宮崎として、絵(画)コンテ集は、全く同一のラストを迎える。

これは、宮崎さんの友達の押井さんが言うようなテーマの同一性ではなく、全く同じものをリサイクルしている。宮崎の絵コンテ集の巻末には、同じ原稿が収録されている。

自然主義的発想から一歩進んで(略)。表現したいものがあって、次に処理方法を考えること。

絵コンテ全集『君たちはどう生きるか』用語解説<かんじんなこと>

ここで、言及されているのは二点です。透明感として事物の表現はどうあるべきか。そして、光と影については同様に面白い画として存在できるか。

映画制作にとっては、監督の絵コンテは、実際にそれを動かすアニメーターにとって偉大な元ネタであって、宮崎作品の今のところラストは、君たちはどう生きるか。

その解釈の複雑さは、すとんと落ちれば、底にある。例えば、監督が描くコンテ自体の存在は、何を規制し、それは等しく権力だとしたら。そして、それ自体は表現方法からあふれ出す深層心理を井戸の中に浸透するようなものだとしたら。

これは、液体としての何か。湿度を感じる何か。光と影の間際か。

それはそこにある。

ここに宮崎の、転向と再転向は、哲学思想の部分を、ほとんど含まない部分に注目します。

カットの瞬間に、哲学するのだが、かすかに春樹的なものと親和性はあるが、混ぜるな危険でもある。

まとめです。宮崎の物語構造を、転向と再転向の観点から問題提起しました。これを、大澤に見られるような社会学の伝統を考慮します。

ここで宮崎の独特な世界観は、パターンとして解釈される反復の可能性についてほのめかしていますが、実際の鑑賞としては、パターンを感じることはごくごく僅かなものになります。

ポニョの井戸はイド。

大澤の社会学では、資本主義に対する、成長と脱成長を、市場はただ成長のみであって、終わらない(エンドのエンド)と、終わるという二項対立があります。

社会学は、カール・マルクスの影響は、理論的にもテーマ性にも現れます。

テーマ性として人間は、永続する社会は物語としては成長し続ける。一方で、世界そのものは、あらゆる点で有限になる。

経済学だと長期と超長期を用いて均衡を志向しますが、これも一定の期間に対する有限性と見なせるかもしれません。

(もちろん資本主義的な市場自体は、何ら悪意はありません。暴落は、いつでも起こるとメカニズムの中で良きとされ、いつでも起こらないと前提として予期される。このリスクの問題です。)

キャラクターの内心に思いをはせるテーマ性として映画はあるかもしれない。ここでテーマ性は、転向と再転向のように対立する概念の境界をあいまいにします。

問題は、宮崎に見られるような表現の問題は、転向は再転向を含む営みなのだろうか。そして正解をどうやったら計測できるのかというビジネス主義にどう立ち向かうか。

大澤さん千葉さん、学ばせていただきました。そして哲学者の哲学者。吉川さんへ。

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