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漱石からジブリへ『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』三宅香帆

「山路を登りながら、こう考えた。
 
智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。

意地を通せば窮屈だ。

とかくに人の世は住みにくい。」(『草枕』)

4000文字。やや長い。

I/Ⅳ

始まるということ

漱石が、こう完璧な小説の始まりを告げると何かが始まる。その始まり感がある。

全面的な夏目フォロワー(これは彼から完全に離れる事は谷崎ですら無理だが)であること。今日では、どういう意味を持つのだろうか。

確かに、小説の始まりは、情景はイメージが浮かび上がる何者かを見出す事ができる。

映画だと、ファーストカットに出てくる得体のしれぬ何か。それは物語だったり、人物の内面だったり、その刹那的な何かが、その数秒の連続にある。カットからシーンという意味の文脈です。

そうすると演出が大事になってくる訳で、アニメーションは、そのメディアとして特殊だと思う。

それで、きたんのない意見という点で、作者の自己啓発本斬りは、痛快である。

自己啓発本の哲学

暇と退屈の倫理学。(國分)これは、暇(X)と退屈(Y)の2軸についてコンサルが使いそうなロジックを前提として、哲学的な思考を施す。

四象限とか。ロジカルに漏れが無い様に思考するとか。心理学でしょう。経済学も経営学も数式であって、その延長に社会学がある。

ここから自分の主張を成立させる行為というのを本にまとめている。そういうものが重要です。

これはロジカルな部分で、自己啓発本で学べる何かです。

自己啓発本の装丁内

これは、ジャンルとして哲学書は、装丁がおしゃれ。デザインの本、これも当然おしゃれ。文芸は世相により、少しホラーという傾向が、ちょっと前まであったような気がします。

するとデザイナーは誰かと考えたくなります。本が、ものとして成立するのは、実際に手に触れることと、インテリアとしてさえ機能すること。

問題はここにある。

Ⅱ/Ⅳ

漱石と谷崎

漱石と谷崎。谷崎の日常からの解脱という意味で少女ナオミになる。(『痴人の愛』)

谷崎は、漱石をそれほど好きではないが、漱石を中心とした日本文学は認めなければならない。

文学において、中心と亜中心。そうとでも呼ぶべき対比がある。

時代を超えてそれが継承されて、この本の例では、春樹と村上龍です。

『13歳からのハローワーク』では、職業選択の自己啓発を、若くしてデビューした村上に言われたくないと、冷淡です。

ライブ・ライブ・ライブ

本書で取り上げられる自己啓発本の作者、前田裕二のSHOWROOMは交流プラットフォームだ。

ライブはライブではない。

そう否定することが前田的な自己啓発です。前田は、不格好経営のDeNA南場から学び起業をした。

これは、既存のライブが本来的にはファン同士の関係性(その拡張)にあって、アイドルと一対多の消費だけではない。そういう分析がある。

その点では、ネットで行われる交流は、社会の一部分でしかない。リアリティが足りない。(この点は注意して語らないといけない。言説に矛盾はつきものだ。)

もちろんこれは、彼が猛烈に思考した結果というものです。ですから、自己啓発本のダークな部分とは別に本質はある。

ここに自己啓発本は、人生に必要だが、人生に必要ない。こういうアンビバレントが生まれる。

アイドル

街で偶然にアイドルのショーを見るとパターンを考えます。

よく観察すると、ファンがアイドルを見つけるではなくて、アイドルがファンを見つけるというような逆転をしている。

アイドルから手が届き見つめる遠くからささやきかけるようなディスタンスにいる。そういう心理学になっている。そんな気がする。

その関係性にスリルがあるかもしれない。それは上手く説明できない何かである。

一方で、谷崎のナオミは、それとは違う空間にいるかもしれない。自己と対象ナオミは、壁のようなものはある。何かは解らない。

これは時代によるものか。明治・昭和の文脈依存か。確かに、全ての文化は昭和の終わりにあった。どこまで続くのか。

Ⅲ/Ⅳ

労働の価値生成。言語的ドグマ。

本書のテーマは労働である。

半身は、自己啓発本に象徴される、企業が主体となった社会について、適切な距離感をとる事です。多くが時間と強度に関する考察となる。

まず、人事考課基準が、俗悪な事。社内の根回しのような諸事と、忖度によって成立する。そんな場合が多い。

一般には、人事考課は、上司の認知による歪みと、会社の文化による歪みが生じやすい。

(実際にはゲーム『ペルソナ5』のような極端なものにはなりません。教師は悪。経営者は守銭奴として描かれます。これは内部と外部(社会)の枠組みを意識した演出だと思います。物言わぬ主人公の決断は劇的になる。語りだす衝動それがすべて。)

これでは、何もかもが会社都合になりやすい。

この点では、課題の多い主張について真剣に論じること。理念を強調する姿勢。

著者が、本を読める社会への処方箋の部分って、いわゆるパリピや言語的な空気読みがうまいやつ。こういうタイプではない人向けですね。

この場合は、それ以外の自分らしさにスポットをあてる。読書ができる事ですね。

共感なり。

熱烈に支持したい。猛烈にフォローする。

パターンの生成。2020年以降。

これは消費のパターンの変化というか、ハッシュタグが、星の孤を描く夜空にまたたく多様性でしょうか。

薬屋の独り言。明晰な主人公は、その感情により生きているのに、それは全てがわかっているのに、あと一歩が遠すぎる。そう思い込んでしまう。

これを表現する為に、登場人物の役割が入れ替わるようなシチュエーションを重視しています。

これは、異世界ものや、ヒロイックな物語を正と反で演出する。役割。これ自体が、更に深みを持っていくという発展にありそうです。

このあたりの、本音と建前。正と反。ある程度、春樹を中心として世界がまわっていた。

何にも言葉に出来ないような何かを、常に求めていた?

Ⅳ/Ⅳ

ループする、ループしない。

問題は、あらゆる作家が、どのようなフィクションを現実において設定しているということ。

メタの意味それは、創作として機能する。行為性なのか。

作者の、否定する「全身全霊」。これは、アートの創作においての、自分を追い詰める行為として機能する。この特殊性は、慎重に考えなくてはならない。

まさに千(千尋)が、通過儀礼として体験する物語は、そのプロセスを超越した自己としてあって、千尋(千)は、その時間軸でのゆらぎ、私である事を社会の中で発見する。

これは、宮崎監督の主旨が、共同体の自立性を求め、パリ・コミューンのようなものを日本史の中に求めるが(もののけ姫)、宮沢賢治(銀河鉄道の本来的な意味。)の葛藤を表現していたかもしれない。

自らで、時間をコントロールする事。その難しさはある。

千のゲー厶

千と千尋の神隠しでは、労働市場に巻き込まれる主人公千尋が、名前を奪われるという契約関係によって表現される。

これは、後期宮崎作品『ハウルの動く城』ではチェンジする。契約とは魔法。魔法とは人間の事で、概ね社会を生きる私達の単数性。これは、たったひとりだけの私を前提としている。

私の物語の生成。千尋の先輩りん(当初は、彼女の物語を構想していた。)との関連性が重視される。

宮崎作品では、正と反(ナウシカとクシャナ)を登場させて、その対立自体が架空のものであると物語解決は、抽象化される。

そこに批評性を持たせるということは、極度に発揮されている。

宮崎ワールドの時代

とりわけ宮崎作品は、どの時代を描いているかというところがポイントです。

近作では、象徴としての人間社会を構成するものとして巨大な塔を描くが、これは、現実ではないものとして否定されるが、塔を完全に消去する事はできない。

社会は、残酷な側面を持つが、くびきとしてである。そこに悪はまるでないという仮定になる。

物語は悲劇のみを扱うが、喜劇であること。その現実肯定や、リアリズム、リアリティは、絶妙なバランスによって成立する。

この点では、映画の登場人物が、全て監督自身であるという、このすっとんきょうな仮定をしてみる。創作の困難性と、そこに潜むデーモンのささやきを前提としているからである。

とかくに創作は難しい。

カットの瞬間として装丁

カットをシーンを形成する瞬間として捉える。

すると、本に込められたテーマは、ものとしての本。それから包み込みまれる文体やら情報。手に取る行為は、文房具のような近さではないが、手にくるページは、本来的な自己を呼び起こす。

対象としての本は、デザインされたものという点では、装丁から始まる何かがある。

パターンとして反復は、時間を含んだ上で、変わらない価値観これはアレンジされて継承する。谷崎的なもの、村上龍的なものと続くだろうか。

これは、一例としては、漱石的なもの、春樹的なものと、せめぎ合う構図だ。

新書が、挑戦的であるのは、そのテーマを、自己啓発本ではない何か。それを閉じ込めたうえで常に変わらず、まるで同じ装丁であること。

作り手の葛藤は、まさにそこにあるが、チャレンジングな試みだと思う。

制約はデザインされるという意味でのルールは、テニスコートの中での感情かもしれない。ゲームが始まったらら、それが世界の全てとなってしまう。

壁論を突き抜ける

春樹のスヌーズな文体と、村上龍のテニスコートのネットのような壁を意識して生きる。壁とはイデオロギーと、それを隔てる想像力なのだがスヌーズは、こころ構えかもしれない。

更に、時間軸は歴史になり、その解釈は、作品に結晶するまで時差は続く。

ここに人生の葛藤がある。

全てを包括した村上さんへ。

正は反へ、反は正へ。駆けめぐるのだ。

(まとめ。つまり、この本は、自己啓発本を超越している。自己啓発本優位なスタイルから批評している。批評点。それは、自己啓発本であること。それがテーマとなる。

その上で、本稿では、漱石から谷崎潤一郎。それから春樹から村上龍。周辺の作家として宮崎駿を見ていきました。

作家の対立軸はあっても、現実から考えると、特殊な世界観の構築という意味で共通点も多いってことですね。)

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