しんしんとシン『ルックバック』
ひとつ。テーマは、それに関する観賞という意味でしか存在しない。
もうひとつ。関係性による余白を感じる思いに表現はあふれる。
とても抽象的になります。
それでも、はっきりとした部分もあります。
四コマ風の口上。
3600文字。ながめ。
悪夢の機能、師弟関係
『ラ・ラ・ランド』的な、幻想というのが現実のものになったという世界線。これは不可能性というネーミングは、時代と並走するような方法は、バンドとしての演奏では成立する。
近年では、まさにこの夢が、リアルなものとして考えられる。これは単にメタ・バース(メタとは前、前とは捉えられない何か)が、フラットかつ画一的な世界観を表現している。そのせいでは、ない。
これは『セッション』という作品では、ビッグバンドという集団で、個人の才能は発揮される。指揮者は師匠になり、全体としての可能性を個々人にも見いださなければならない。
この作品では、ジャズ・ミュージシャンのエピソードを用いて、否定性を発揮する。
お前は、俺に蹴られるほど、天才だ。
そこでは、師匠からの、しごきというのがある。この否定性は単純ではありません。
天才の天才になる前は、大変な経験だ。
走り出す
ここでの否定性は、師弟関係というのが、イーブンなものであれ、世代もある以上は、異なるエンド(目的)に向かうのである。これで物語が始まります。悲劇は伴ってしまう。
作家性に注目すると、デザインの存在はあるが、テーマ性に向かうものこそが、それを超えたアートだと思う。その意味では、抽象的なものに向かいます。
ところが、タイトルが走り出すと、一直線に進み、それは、劇的な瞬間まで向かう。
これは、作家にとって、始めてのファンを獲得するということです。
そうすると、この作品では、師弟関係というのが無いようにも思える。共謀関係といった方が良いのだけど、作品を世に届けるという野望という意味では、スリリングな何かを含みます。
手羽先は、飛べない訳ではない。
藤野は、自らの作家性のようなものを原動力に突っ走る。
京本も、自覚していない作家性に気付くプロセスとして生きる。非言語の表現は、風景は、言語に宿る大切な部分。
作品を語る時は、雄弁になる。
(例えば、レイアースについて語る時は普段とは別人になる人がいたとする。バイクに乗ると変身する人もいる。これは、語りについてのインセンティブは、自己にあり作品にある。これでもコミュニケーションは成立するはず。)
ルックバック、背中を見て
「ルックバック」という言葉には、抽象的な印象があります。それは、どこかその中に画一的な意味もある。双方向性はある。
日本語にて「背中を見て」は、具体的な意味があります。この意味が母国語である安らぎは、双方向性について、その中に、多義性が生じる。
抽象から画一的。それと、具体的から多義性の違いです。
映画の後半で、京本は四コマ漫画で、回答をすることによって表現をします。
この四コマ漫画による、文通のようなやり取りは、ショッピングの楽しみや、食事の一番大事な部分として、映像表現を重ね合わせたものかもしれません。
京本にとっては、添削なんて、だいそれた事は出来ないけど、背中を見て。
背景芸術が、芸術だと、音楽も後半の役割と機能が感慨深いです。
これは、異なる四コマとして、冒頭の作品を示します。ここでは、ナンセンスに思える行為を、意味の中で、しっかりと差異を強調されています。
つまり、四コマ漫画で、キャッチボールをするような会話と、俳句大会のような競技が同居しているのですね。
競技は、マンガ雑誌の順位と関連していると思います。登りつめると、その時点での自分の限界がみえて、マンネリを感じます。
何もかも面白くない。
キャッチボールを四コマ漫画で
京本は、藤野からみて、超越的、つまり漫画原作者のポジションを形成している事がわかります。ファン目線だが、ファンを超えている。
これは師弟関係の乗り越えという、継承の話ですが、京本は、その才能によって師弟関係の倒錯というべき状況を体現しています。相互フォロワーとも呼べるかもしれない。
四コマで説明される価値観を、それぞれの関係性を考慮すると、更に膨らみそうです。
藤野の四コマは、自らの感覚を表現して、そのカテゴリーによる作品群に、京本は反応します。藤野の感覚は、深層心理まで達するような何らかの概念です。
粗削りだが、コアがある。京本は、藤野のコア部分を注視します。
次の四コマ漫画。家にいる京本と、届けものをする藤野の場面です。
ここでは、思わず、ハプニングによって、これは必然ですが、四コマが、京本に届いてしまう。
この作品の存在が、藤野に後悔をもたらす事になります。
これは、京本にとっては、創作へ向かう原動力となるのですが、その表現方法の選択と、それによって突き出される京本の運命を考えます。
ここに、藤野は『ラ・ラ・ランド』の夢の部分における選択の問題を考える訳です。
走る、走るな。迷わず走れ。
作品に込められた思いは、ナイフの鋭利な部分を、常に伴う。
それは永遠に思える何か。始まりは四コマ。
概論∶一般性の必然
鏡像段階を考える。
からみあうような縁(えにし)を、どのように表現するか。
自己を巡る冒険は、ここではどうくるのか。
創作の問題は、受け手というのが不在になるというのは、全くの正当性を、その解釈の余地にある以上、対話は続くというか、繰り返してしまうのである。
ハッシュ・タグは、固定された無数のものがあるという事実と、組み合わせによる個性が形成される。
(組み合わせは、それだけでは、必ずしも有機的なものにはならない。)
ここでは、やがて手放すタグを、真理だとみなす訳にはいかない。
あらゆるバージョンが鏡像段階としてあらわれ、それがアンリアルだと発見され、そのアンリアルが、やがてリアルとなった。
コレではないということ。
やや強いナンセンスギャグ(これはそうではないという否定性によって成立するアートである。)
偶然性を、出来事に、見出す事もある。
そこから内省は、まさに模倣についての審級が、倫理性をもたらす営みである。
双子の明星
明けの明星。宵の明星。
それは等しく異なるものであるのは、変化し終点に向かう、パワーであり、それをたやすくテクストに閉じ込める事は、神にもできぬ。
キャラクターの非言語的な部分は、雑踏の中に、マトリックスの中に、しんしんと雪の中に消されてしまう。
書き出すと止まらないのは、そのプロセスには持続が大事だということであって、そこにはパワーが潜む。
近年の作品には、こういった傾向は、すごく出ています。
ラストの叙情に思いをはせ、ただ藤野の、私は他者を発見し、これは、自己のセンスとしての意義を見つける事なのだけど、アリス的な世界を迷う事によって、鏡に映る自己が、決して自分だけのものではないことを知る。
これは、創作のマンネリという事を乗り越える事なのだけど、何やらこのマンネリという言葉にこそ謎があり、存在しないシンを求めてしまうのである。(マンネリは極端に、経済的、社会的なものです)
師匠は、弟子に蹴りをいれる。弟子はマンネリを倒す。
映画では、蹴りをいれる対象は、鏡像として自己だが、これは映画がフィクションであるということ。それ以外ではない。
ラストシーン、ハル。
あき田んぼ、藁ぶき眺め、懐かしさがこみ上げる。
映画のカットは、東北だと同じような地域もあって、森があるとリスがいて、思ってたより大きいのが印象でした。平泉です。
雪国を感じるシーンも、リスから思いを馳せると、シーズンを通した舞台が画面にうつる。
やがてラストの窓も、そこに、はえる短冊に、ひとつづきに都会の中に私達は、いるわけではないと、その鏡によって、はっきりと理解するのです。
ハル。
・・・・
エクスキューズ。
京本の話す言葉には、温かみがあります。こういうイントネーションは、何らかの団結をもたらすように思います。東北地方では、都会との対比は、このようなところにも現れます。私達は、何を話すかという点です。
2024年の7月以降の信じられないような豪雨に、大変な思いをされている方たちがいると聞きます。作品の持つ感覚の広がりは、共通の何かを見いだす事が出来るのでは。例えば言葉にです。
テーマについては、映像自体から伺えることに、限定しました。これは、マンガから映画というアレンジメントの話として考える事です。
何かの関係性というのは、感じられるのではないか。そうすると、作品の細部が重要です。ここでは四コマの短冊を検討していきましたが、表現にも同じ事が当てはまりそうです。
ただし原作の持つパワーがすごい事。これはテーマ性に関係する事は間違いないでしょう。
ペンにのるインクは、デジタルでもアナログでも、それを永遠に等しい物語の強みをそこに残している。
リスの足跡が、しんしんとシン。あります。
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