長い夜、ハウ・ツー本の哲学。

我々は、やれやれである。

あらゆる悲観論が客観に入れ替わってしまうという事は、内省の問題として考えなくてはならないけど、それが成立しない時代はある。

長い夜に、システムを考える。

入門というと、入口から入るという事になる。

全ての入門には、体系がある。

始めにテクストがある。

音楽原論みたいなものになります。

以前読んだのは、秋葉系ミュージック解体新書のようなタイトルです。ハウ・ツー本でした。

ここでのテーゼは、西洋音楽であるオーケストラは、非西洋のロックやポピュラーミュージックについてマッチングするのは、工夫がいるという事です。

ロックに、オーケストラのサウンドを乗っけるというか、古くはビートルズです。

ここでは、ロックやポピュラーミュージックが、完全に非西洋かというと、クラシックに比較してバージョンが違うというような問題です。

少しの違いに、根源的な差が生じてしまう。

すると、出口を探していく事になる。

プロの仕事というのを検討すると、スタイルに対して需要を考える。システマチックに形成される需要というのに、マッチングするように制作をする。

このため、ナンセンスというのが一般的には成立しない。(難問という事です。)

そこで足掛かりが必要ですが、そうすると秋葉系で考えたマッチングの問題があって、そこを繰り返して、大きく助走をしてジャンプする。

映画ですと、ロードムービーのパターンとは過剰である。

黄色い服のウマ・サーマン。キル・ビル。

システムの領域を肯定しても、その外部のみが問題になってしまう。

レストランチェーン。作業マニュアルは、バッファを、ゆとりとして記載すべきだ。パルプ・フィクション。

時間に関するテクノロジーは、常にコスパを、人間について考えなければならない。

ほどほどのパンプキン(過剰な事の例え)にならなければならない。

我々は、ヤレヤレである。

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