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濱口竜介『他なる映画と』

CUREからの流れに注目します。

この本が構成するのは一連の講義です。

仙台で行われた一連が「他なる映画と」になります。講義の回次が例えば序破急と、3つあらわれます。

ここで取り上げるのは、第3回の「映画の、演技と演出について」です。

CUREという作品は、私がいつか観た時はホラーとして機能していました。これは個人の主観として、そしてマーケティングとしてだと思います。

そうです。黒沢清監督の映画でした。

ここでマーケティングは、映画の枠組みとか、システムを示すことにします。ジャンルとして言われるようなものは、パッケージとしてですが、その中で映画は表現をします。

それが、今観ると完全にひっくり返って表現の内部が、その時代の空気をレンズ越しに表していて、それが現在とシンクロしている。

これは、映画そのものが、時間を経て変化したのでしょうか。それとも私が変化したのでしょうか。

黒沢清の映画論

本編に先立って、黒沢監督の映画論を検討します。

書籍『黒沢清、21世紀の映画を語る』からです。

『カリスマ』という映画で、主人公は何を考えているのですかと聞かれて、監督は驚きます。彼にとって、映画の登場人物が何かを考えているという事は想定していないからです。

「主人公の目的だと思っていた事が、ある瞬間急に違っていた」

この映画では、批評的なものを中心にすえていて、それがカリスマなのですが、あくまで抽象的な概念にとどまる。

そうすると抽象的なものを、あれやこれやと考えながら観るのですが、一般に、映画は意味のないものを想定します。

概念の意味を、演出をともなう無意味に思えるものを前提にしなければならない。作品解釈って難しいですね、となります。主人公と、名刺交換でもすれば何かわかるかもしれない。そういうシステムもあります。

プロセスの中で、ふつふつと沸き上がってくる泡は、恐怖でもあるが、その恐怖を打ち消すような何かを持ち、やがて映画が公開されるまでスタンバイしている。

そして、そこにいきかう人々の感情など、完全には、わからないのだけど、一方でマーケティングは内心をあらわにしてしまうと。人の心が読めるエスパーばかりが目立つようになる。

本書『他なる映画と』では、プロセスの中で演技は演出と、どのように向き合うか。

以下、本文です。

「映画の、演技と演出について」

この講義で濱口監督は、映像を流し、紹介しながら、作品を読み解きます。

CUREからの流れに注目します。

『CURE』の主人公は二人、『役所広司演じる刑事と、萩原聖人演じる容疑者です。刑事の妻は精神を病んでおり、刑事は重荷に感じて』います。(ここでの『 』は引用部分です。)

容疑者は『催眠による殺人教唆の容疑者として逮捕されました。しかし、彼の精神は障害を示していて、精神病院に入れられています。』

ここで刑事と容疑者の対話が紹介されます。まず刑事の演技が『人間の感情と身体はあそこからここまで飛躍できる』と絶賛します。

(「感情」「身体」「飛躍」といった用語に注目します。とくに「飛躍」は変化を表すことが気になりました。)

次に、脚本が検討されますが、実際のシーンとの比較によって、役所広司による即興の部分があることが指摘されます。

ここまで解説された後に、もう一度映像が流される。

刑事『なんでお前らみたいな狂った奴が楽して(また間宮の方に向かっていく)、俺みたいなまともな人間がくるしまなきゃなんねんだよ!あんな女房の面倒を一生面倒見なきゃいけねんだよ俺は!!』

この一連の流れで、言葉的な乱れの部分よりも、刑事の動線の違いによって、本人の即興によって行われたのではないかと推測されます。黒沢監督が行ういつものスタイルとの差異を感じているのですね。これは普通は気づかないです。(動線は「身体」の動きが演技で重要という事です。)

そこからの説明がすごいのです。刑事は、セリフの反復を通じて、ディスコミニケーションのすれ違いを強調していくのですが、連続する流れのなかで強弱をつけることにより、自らの『感情を爆発させるための準備』としています。

そして、即興は高まる。

(弱い即興から強い即興とでも表現できるかもしれません。)

さらに、即興によるセリフの変化にて、音としての「ん」(「n」)に導かれるように表現します。

(自分の中での葛藤です。幼いセリフを放つ自己がいて、ある種の二重人格としての自己が現れる。何かが「飛躍」している何かに向かって、1なるもの2なるもの、どちらかへ向かう。そのはずです。映画とは、いつもそうだった。)

さらに「映画の、演技と演出について」

まだまだすごいが続きます。

ここまでで、優れた脚本のダイアローグを前提に、役者が即興を含む演技により素晴らしい映像が成立したことが説明されました。

濱口監督は、制作の条件を検討することで、次の結論を導き出します。

役者が『演技に際して撮り続けたリスク』が高いこと、感情のコントロールの点で失敗するかもしれないため、このシーンがテイク2ではないかといいます。

この作品がフィルムで撮影されたことで、やり直しが難しいこと。ですから役者が、このような演技を行う場合は『安全が確保されている』必要があります。

(レッドカーペットは2度引かれると、少し格好つけるのはどうでしょうか)

こうして、制作のプロセスを思い浮かべることによって「正確な」偶然が生まれる。『フィクション(テキスト)とドキュメンタリー(現実のからだ)』が一致・両立する。それは、「出会い」という特殊用語で説明されますが、演出と演技が、お互いにとっての原因で結果となる。

ここで、互いに連関する三つの説明が、連続して表現されていることが注目されます。

原因で結果という表現も面白いです。いわゆる超越論的な抽象部分を確かでリアルのものと表現できる奇跡でしょうか。

超越論的な問題を前提として、テクストから現れる何かという部分に重点を置きます。そこからの発展を映画の可能性に開かれつつ、それを映画史の視点から、確実で力強いものに昇華している。

ここで、制作をシステムとみなし、我々はシステムに乗っかっているのだという視座を、その中でサーファーは、あらゆるスタイルが人生であるという脱システムとして、そんな捉え方もできそう。

演技を制作の観点から、ここまで迫っていることは、本当に驚きです。

「感情」と「身体」は、絶えず変化し、時には「飛躍」します。

この飛躍は、スクリーンを媒介して、一般的には伝わりにくい、伝わるのに時間がかかるものも含むのですが、それが何十年も先だったり、それもこれから先の事だとすると、映画館の暗室の暗さは、ふつふつとわきあがるホラーと同時に、思わずジャンプしてしまうような期待感であふれる。時間が持続する。

チャート式に1・2・3の回次が、弓しなり音を上げるような物語それぞれを構成する。解説する作品それ自体が、庭園に浮かび上がる石のように、ステップする。

スローモーションのような、映画の体験が、フラッシュバックして、現実の時間が変化する。そんな贈り物が待っている。

CUREからの流れが注目される訳です。

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