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関西から出てきて神奈川県の大学にかよっていた頃、住んでたアパートは坂の途中にありました。その建物は二階の廊下からも橋のようなものが伸びていて、そのまま前の道へ渡ることができます。いや、そこまで珍しい風景というわけでは別にないんですけどなんか、へぇーって感じがするかなーと思って書いてみました。 ひさしぶりにそれを見にいったらちゃんとまだあったので写真に撮り、ついでにかつての近所を歩いてみると何度も買い物したなーと生活がおもいだされるスーパーや、一度だけ入ったことのある洋食
二〇二二年四月二十九日(金・祝) すごく雨 もう長いこと、日記を書けてなかった。ひさしぶりにこの青いノートを開いてみると最後のページは、今日と同じ四月二十九日の日記だった。ちょうど一年前の。すごく忙しかったわけでも日記を書くのが嫌になったわけでもなかった。でもいつのまにか中断してしまっていた日記を再開するには何か理由のようなものが必要な気がして、今日は一日じゅう強い雨がずっと降っていて、たぶんこの一年間で私はさびしいという気持ちを一度も抱いたことがなかったんだ。それはとて
私が中学・高校生だったとき(2008~2013年)、いちばん好きなエンタメといえばテレビドラマでした。 などなど。てかこの期間の豊作さすごいと思うんですが、思い出補正でしょうか。 とにかく私はテレビドラマに、そしてなにより脚本家に憧れました。2014年、大学に受かって東京(正確には横浜)にやってきた私はシナリオの講座に通ってみたり、自主映画を撮ってみたりしました。でもけっきょく納得のいく、自分自身で好きになれるような脚本を書くことはできませんでした。自分が憧れる作品にすこ
短歌を作っているとたまにとても嬉しい気持ちになることがあります。それは僕にとっては、昔の自分が漠然と抱いていたような感情をぴったりと言い表すことができたと思える瞬間なんですよね。あのときの感情はまさにこういうものだった! とか、この歌にこめることができた感情はあの日のあれと似ている! と思える瞬間です。昔の自分には言語化できていなかった曖昧な感情を具体的に言い換えたかのような、あるいは別の架空のシチュエーションを通じて再現したかのような歌がふっとできてしまうときがあるんです
日常的に短歌を読む人の多くは日常的に短歌を詠む人だ、ということが短歌の世界ではよく言われる。「読むけど詠まない人」のことを指して純粋読者という言葉が使われることもある。テレビ番組を観る人のほとんどがテレビ番組を作らないように、小説を読む人の多くが小説を書かないように、純粋消費者の占める割合はふつう、そのジャンルの(市場)規模が大きいほど高くなる。とはいえ、他人の詠んだ短歌にまったく触れずに自ら短歌を作りはじめる人がほとんど存在しないであろうことを考えれば、どんな歌人もかつて
午前中、夏子は青空文庫で寺田寅彦の「庭の追憶」という短い随筆を読んで、自分の実家の小さな庭のことを思い出していた。高知にある夏子の実家の庭には一本の花梨の木が生えていた。秋になると黄色くてゴツゴツした花梨の実が枝の先にぶら下がったり芝生の上に転がったりしていて手に取って鼻を近づけてみると独特の甘い匂いがした。蜂蜜に漬けて食べたりすることもあるとあとで知ったけど、当時はあんまり食べものとは思ってなくて玄関のところに置物みたいに飾ったりしていて実際食べたこともたぶんなかった。当
感情は、感情には宛名がある。ふだんは自分自身や特定の他者に向けられていることの多い感情というものが、ふとした一点から急に拡散して、その宛名が曖昧に広がって遠くへいくとき、そこに感動がうまれるんじゃないかと私はいま思いついた。 先週、大学時代にいろいろ仲良くしていた夏子がとてもひさしぶりに電話をかけてきたので私はたいへん驚いた。最近、短歌を詠むことをはじめた、と夏子は急に言って、ちゃんと作れたのはまだ一首しかないんだけど、短歌を一首作ったからって読んで感想をくれるような知り
もう長いことあの人に会っていない。会わなくてもこうして過ごしている。ほんとうに必要ならそのように動くはずでしょ。結局、必要がないから呼ばないし、行かない。来ないし、呼ばれもしない。つまりこっちのせいでもあり、あっちのせいでもある。そうしてつりあっている。つりあっているとお互いが感じているのならまだいい。ただ、こんなことを考えているのはたぶんこっちだけだし、「行動にうつすほどではないけれど、たまにふとあなたのことおもいだしたりするよ」って、伝えられても困るだけなのはわかってる