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テレビドラマから現代短歌まで

私が中学・高校生だったとき(2008~2013年)、いちばん好きなエンタメといえばテレビドラマでした。

熊谷純 脚本 「今日は渋谷で6時」(2008)
古家和尚 脚本 「メイちゃんの執事」(2009)、「任侠ヘルパー」(2009)
野島伸司 脚本 「ラブシャッフル」(2009)、「理想の息子」(2012)
木皿泉 脚本 「Q10」(2010)
古沢良太 脚本 「リーガル・ハイ」(2012)
岡田惠和 脚本 「最後から二番目の恋」(2012)、「泣くな、はらちゃん」(2013)
坂元裕二 脚本 「最高の離婚」(2013)
藤本有紀 脚本 「夫婦善哉」(2013)
宮藤官九郎 脚本 「あまちゃん」(2013)

などなど。てかこの期間の豊作さすごいと思うんですが、思い出補正でしょうか。

とにかく私はテレビドラマに、そしてなにより脚本家に憧れました。2014年、大学に受かって東京(正確には横浜)にやってきた私はシナリオの講座に通ってみたり、自主映画を撮ってみたりしました。でもけっきょく納得のいく、自分自身で好きになれるような脚本を書くことはできませんでした。自分が憧れる作品にすこしでも近づけているという手応えがまったくと言っていいほどなかったんです。

自分が見たら好きになれるような作品を、自分には作ることができない。
それはとても悔しいことでした。

ちなみにそれから、脚本を書くことをあきらめ、ドキュメンタリー的な映像作品も作ってみたところ自分でもすこし良いと思える作品ができました。自分が時間をかけて考えて作り込む言葉よりも、他者がその場で発する日常的で〈生〉な言葉のほうがおもしろい。皮肉なことです(でもこれはこれで、いまでは大事にしたいと思う気づきのひとつになっています)。

それで脚本家にはなれなさそうだと思い、次は小説を書いてみようと思いました。でもそれもあまりうまくはいきませんでした。個々のセリフ、ひとつのシーンはいい感じで書けたとしてもそれが続かない。全体としてちぐはぐな感じがして、良いセリフやシーンも流れのなかで活きてこない。それは脚本のときと似たような手応えのなさでした。消費者としての私が好きで憧れているのは、論理的で構造的で巧みな(見えない)伏線が張られているような物語なので、これは致命的でした。


そんななかで、2016年、ふたつのことが起きました。

ひとつは、大学で出会った仲間と一緒に『文鯨』という同人誌を作ったことです。

まず、同人誌を作るなかで、他人のプロデュースとか編集者的な役割に自分はあまり興味がないということに気づいて、それだったらやっぱり自分自身で作品を作ることをしたいと思いました。
それと、むしろ本を作る過程においては、校正校閲の作業が自分には向いているということ、これを仕事にできれば自分の好きな言葉の、出版の世界に関わりを持ち続けることができるんじゃないかということにも気づきました。この気づきはいま自分がしている仕事にもつながっているので、校正校閲という仕事を発見できたのはとても有意義なことでした。

もうひとつは現代短歌というジャンルに出会ったことです。

俵万智や枡野浩一、雪舟えまや山田航といった歌人の作品を読んで短歌にハマり、そのうち自分でも作りはじめました。一首一首は短いものだけれど、短いからこその洗練(単語の工夫、文法の工夫、物語の工夫)が短歌という表現には詰まっています。

いまでは自分が見ても好きになれるような作品を、自分で作れるようになってきたと思っています(自分の評価)。これはほかのどのジャンルでも自分が乗り越えることのできなかった壁でした。しかも、何人もの友人に褒めてもらったり、投稿した作品を短歌の雑誌に載せてもらったりも、一首単位では、できるようになってきました(身内の評価+短歌界内での評価)。

ところが、壁を越えると見えてくるものは何かと言ったら、また次の壁です。

ふとした瞬間に自分が過去に作った短歌を自分で思い出して、「うん、やっぱりいいな」なんて思うようにすらなってきているのですが、自分で納得のいく作品が作れるようになってくると、今度はそのクオリティが全くの他者から見てどれくらいの水準に達しているのか、が気になってきます。自分で自作のファンになれたのはいいけれど、今度は、自作の一番のファンがけっきょく自分でしかないということが、なにか限界のようなものに感じられてくるんですね(自己承認欲求→他者承認欲求)。

短歌というジャンルでいえば〈納得のいく一首〉の壁の次には〈納得のいく連作〉の壁が聳え立っていたということです(そしておそらくそのまた向こうには〈納得のいく第一歌集〉の壁が立ちはだかっている予感)。新人賞を狙うにしても、結社誌やネットプリントで発信するにしても、より多くのひとに(短歌を作らないひとにも)読んでもらい、しかも好きになってもらうためには、一首一首のクオリティももちろんですが、全体としての見せ方、パッケージングのセンスの良さがどうやら必要みたいです。

生活のその場その場で思いついたフレーズを日常的に記録しておく、それを肉付けしていって一首として仕上げる。いまの自分の短歌の作り方は劇映画よりもむしろドキュメンタリー映画の作り方に似ているような気がします。でもたぶんそれだけでは拡がりが足りないというか、やっぱりそこから先はフィクション的なもの、演出的なものが欠かせないということなのでしょう。そういう努力は本質的なことではない、と切り捨ててしまっていてはこれ以上先へはいけないようです。

短歌で、本当の意味での〈他者の評価〉を得るためにはけっきょく、連作・歌集を作る力、全体像を構成する力、ひいては〈自作で自作を演出する力〉が不可欠なのです。短歌を作りはじめてから5年は経ちましたが、ここの部分はまだまだ難しいです。とはいえ、これは自分が脚本や小説をあきらめてきた原因にも似た力能の部分なので、なかなかすんなりいかないだろうことは自明です。

でも今度こそ、この壁を乗り越えてみたい、と思いながら最近は『月刊おもいだしたらいうわ』というネットプリントづくりをがんばっているところです。




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