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続・趣味ではじめる哲学研究~趣味で調べる哲学史①~

 突然ですが、前回のノート「趣味ではじめる哲学研究」には矛盾があります。前に僕は次のように書きました。

「何の知識もない人がいきなり数学や物理学をできないのと同じように、哲学だって学問ですから、何も読まず勉強せず急に哲学をしはじめることは不可能です」。

一方で僕は「専門の哲学者を決めて、その人の著作の一部分のみをひたすら読み込む」という手法を推奨していました。

ここには大変な矛盾があります。「いきなり哲学しはじめることは不可能」と言っているのにも関わらず「いきなり哲学書の一部分だけ読み込め」と言っているのです。

なんだか自分で勝手に矛盾をでっちあげているような気がしないでもないですが、しかし一方で、知識なしに哲学書を読むことは、たとえ一部分であってもしんどいのは間違いありません。ということで今回は、「とは言っても哲学史の知識は必要だよね。だからお手軽に身に着けちゃおう」という邪な動機のもと、この矛盾をアウフヘーベン(止揚)します。なお、今回は引用文を多く含むので、長かった前回と比べても非常に長くなっておりますが、引用文はあまり本筋と関係ないので、読み飛ばしても問題ありません。また、都合上、テクストの読解に踏み込んだところもありますが、テクスト解釈に踏み込む意図はなく、あくまでテクスト読解の実践の一例として提示していると考えてください。

・入門書?いいえ一次文献です。

 Q.「やっぱりそうなると入門書を読むところからですか?」

 A.「いいえ、一次文献です。」

※一次文献とは哲学者自身が書いた大元となるテクスト・原典のことです。そのテクストをもとにして書かれた解説書や論文等を二次文献と呼びます(例:デカルト『省察』は一次文献、『デカルト『省察』を読む』みたいな本があればそれは二次文献)。

「いきなり色んな作品を読むのは不可能ってこのあいだ言ってたじゃないですか!」と言う声が聞こえてきます。「この理由から私は、読者がゆっくり私とともに歩を進めて、すべてを通読するまではこのことについて判断を下さないようにお願いする」(スピノザ『エチカ』第二部定理11備考)と返しておきます。

冗談はさておき、こないだも言いましたが、入門書を通読するのって結構しんどいです。それに、これは実体験なのですが、入門書を読んでも、原書で何言っているか気になって、結局一次文献を手に取ることになって、二度手間になることも多いです。世の中には優れた入門書が数多くありますが、実はあれらは「その人の哲学をお手軽に理解しちゃえる本」というよりは「一次文献を読むこと前提で、論文や研究書より平易な言葉で書かれたガイドマップ」のようなものだと個人的に思っています。旅行ガイドだけ読んでも実際にピンとこないのに似ていますね。

 しかし、かと言って前回言った通り一次文献を通読するのはもっとしんどいですよね。じゃあどうするか?簡単です。「読みたいところだけかいつまんで読めばいいのです」。これが邪悪にして手軽に哲学史の知識を身に着ける方法です。たとえばスピノザ読むのにどうしてもデカルトやスコラの知識が必要だよーということはあると思います。かと言ってデカルトの『省察』『哲学原理』やら読んで、スアレスやらトマスやら読んでいたら、今度はアヴェロエスに遡って、アヴェロエスを読むなら今度はアリストテレス…なんて遡る羽目になります。これではいつまで経ってもスピノザが読めません。ですので、大事なことなので二回言いますが、「読みたいところだけかいつまんで読めばいいのです」。大事な事なので二回言いました。

じゃあ「どうかいつまむか?」。これが今回一番の要点になります。

かいつまみ方その①:用語でしらみつぶし作戦

 ちょうどスピノザの話になったので、スピノザを例にとって説明していきましょう。まずは、スピノザの『エチカ』第一部を読んでみます(引用はすべて岩波文庫、畠中尚志訳より)。

 「一 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられないもの、と解する」。

ポカーンとなります。我慢して読み進めてみましょう。

 「二 同じ本性の他のものによって限定されるものは自己の類において有限であると言われる。例えばある物体は、我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに、有限であると言われる。同様にある思想は他の思想によって限定される。これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない」。

「ラテン語でおk」と言いたくなるのをこらえて、読み進めましょう。

 「三 実体とは、それ自身のうちに在りそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する」。

 「四 属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する」。

 「五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する」。

そうだ、ブックオフ行こう。グッバイ、「この本」の運命のヒトは僕じゃない。辛いけど否めない。

というバッドエンドを迎える前に、一体何がわからないのか一緒に考えてみましょう。まず考えられるのはやはり「用語」の取っつきにくさだと思います。これは哲学が日本に輸入されたときの訳語の選定とかの問題もあるのでしょうが、哲学用語はとにかく取っつきにくいです(数学用語なども同じような問題を抱えているような気がしますが)。

パッと思いつく限りでも「自己原因」「本性」「類」「実体」「属性」「知性」「本質」「様態」「変状」あたりがあります。

この中でも、『エチカ』の他の箇所の用例を調べればなんとなく意味が見えてくる用語もあります。たとえば、それ自体定義されておらず、唐突に使われている「本性」「知性」「本質」「変状」辺りは特にそう言える気がします(「本質」は第二部で定義がありますが)。確かに、同著者の同用語の別の用例を調べることはそれ自体読解にかなりプラスの効果を与えるのは事実です。

がしかし、それでもやはり、知識まっさらな状態でこれだけ意味不明な用語を抱えたまま『エチカ』のみを読み進めていくにはやはり限界があります。そこで、これらの用語解説を他の哲学者にやってもらおう!という話です。「誰が一番わかりやすく私に説明できるか選手権大会」を自分でこっそり開いちゃいましょう。

・まずは原点にして頂点、アリストテレスから

 「実体」などは割とよく知られている哲学用語なので、アリストテレスとかを参照すればいいとかはパッと思いつくか、調べたら出てきそうですが、「自己原因」などは誰に由来する言葉なのかも最初はわからないかもしれません。ですので、わかる範囲からまずいきましょう(この「わかる範囲」の広げ方や、選手権大会のメンバー選抜法に関しては、次の「補足」で解説します)。ということで実体から。

たとえばアリストテレス『形而上学』には「哲学用語辞典」なんて便利な巻があります。そこから調べてみましょうか(この調べものこそが哲学研究の醍醐味だったりします)。

 「ウーシア〔実体〕と言われうるのは、(一)単純物体、たとえば土や火や水やその他このような物体、また一般に物体やこれら諸物体から構成されたものども、すなわち生物や神的なものども、およびこれらの諸部分のことである。これらすべてが実体と言われるが、そのわけは、これらが他のいかなる基体〔主語〕の述語〔属性〕でもなくてかえって他の物事がこれらの述語であるところの〔基体的な〕ものどもであるからである。(…)これを要するに、実体というのには二つの意味があることになる。すなわち、その一つは、(一)もはや他のいかなる基体〔主語〕の述語ともなりえない窮極の基体〔個物〕であり(…)」(アリストテレス『形而上学』上、出隆訳、岩波文庫、175頁)。

ほうほう、他の主語の述語に絶対になりえない究極の主語かー。

 「もののポイオン〔性質、本来の語義はどのような、いかような、等々の意〕というは、(一)或る意味では実体の差別相〔種差〕のことである。たとえば、人間はどのような〔いかなる性質の〕動物であるかと問えば二本足のと答え、馬はと問えば四つ足のと答え、あるいは円はどのような図形かと問えば角のない図形であると答えるが、それはそれぞれの実体のこうした差別相がそれぞれのどのようなものかということ〔すなわちそれの性質〕を意味するからである」(同上、189頁)。

へぇ~実体に「違い」として性質がついてくるイメージかなぁ。じゃ、今度は『カテゴリー論』でも調べてみるかな。

 「実体―それも最も本来的な意味で、そして第一に実体と言われ、また最も多く実体であると言われるのは、何か或る基体について言われることもなければ、何か或る基体のうちにあることもないもののことである、例えば或る特定の人間、あるいは或る特定の馬。そして第二実体と言われるのは、第一に実体と言われるものがそれのうちに属するところの種とそれらの種の類とである、例えば或る特定の人間は種としての人間のうちに属し、そしてその動物がその種の類である。だからそれらのもの、例えば人間や動物は実体としては第二と言われるのである」(アリストテレス『カテゴリー論』、『アリストテレス全集』(旧版)第一巻、岩波書店、6頁)。

ほほぉ~実体というのは特定の人間だか馬だかなのか!とすると、例えば「柳田悠岐は人間である」とは言えるし、「人間は二足歩行の動物である」とは言えるけど、「甲斐拓也は柳田悠岐である」とは言えないもんな。逆に「人間は柳田悠岐である」なんて言ったらすべての人間が柳田悠岐みたいになっちゃうもんな。うんうんなるほど、特定の人間は他の主語の述語にならない気は確かにする。あっ!そういう意味でスピノザも「それ自身のうちに在りそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの」って言ったりしてたのかな。

ね?ただ調べものしてるだけなのに段々と哲学してる気分になってきましたよね?

・お次はレペゼンスコラ、トマス・アクィナス

 さて、次は調子に乗ってトマスとかも読んじゃいましょう。稲垣良典さんの『トマス・アクィナス』は、稲垣さんの解説とともにトマスの各著作の抜粋集になっているのでオススメです。こういう良きレファレンスを探すのが本屋や図書館を巡る醍醐味の一つなんですよね。

 「というのも、本来的・自体的に「存在するもの」ensといわれるのは実体substantiaであり、実体が自存するのである。これに対して、もろもろの付帯的なものaccidentiaは、それらがみずから存在するという意味では、「存在するもの」とは言われないのであって、あとで述べるように、何かが付帯的なものの主体(=基体subjectum)として存在する限りにおいて、付帯的なものは存在するのである」(トマス・アクィナス『ボエティウス・デ・ヘブドマディブス註解』第二講、稲垣良典『トマス・アクィナス』、講談社学術文庫、325頁)。

おーなるほど、アリストテレスみたいなことを言っているけど、特に「自存する」「みずから存在する」ということに焦点が当たっている気がするな。そして「付帯的なもの」はみずから存在していなくて、何か基体のうちに存在するのかー。例えば「柳田悠岐は広島出身である」という場合、「広島出身」はそれ自らでは存在せず、柳田悠岐が存在する限りにおいて存在する、と考えればいいのかな?ん?スピノザの様態の定義、「実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの」ってこういう仕方で考えてみてもいいのかな?

 トマスだと中公クラシックスの『神学大全III』も詳細な註や索引がついていて、哲学辞典のように用いることができるのでオススメです。稲垣訳の『在るものと本質について』はラテン語対訳になっているのですぐさま原語が確認できます。しかし、あまり深入りすると迷宮に入り込んでトマス・アクィナスに取り込まれてしまいそうなので、次へ行きます。

・いよいよ近代哲学のビッグボス・デカルトです

 今度はデカルトへと進んでみましょう。デカルト先生はスピノザと同時代であり、そのため時代が異なる哲学者よりもスピノザと比較的問題圏を共有しているので、参照軸として凄く便利です。「誰が一番説明上手か選手権大会」の選抜メンバーを考える時、このように自分の専門とする哲学者と時代が近い哲学者を選抜することは、前述の意味でも、そして最初に言ったような哲学史的無限後退を避ける意味でも、非常に有効な戦略です。では、まずは主著『省察』からいってみましょうか。この本にも索引がついていますので、比較的楽に調べることができます。

 「われわれが認識している何か(すなわち、その実在的な観念がわれわれのうちにある何らかの特性、性質、属性)が、基体のうちにあるように、あるいは基体によって存在するように、そこに直接内在しているすべてのものは、実体substantiaと呼ばれる」(デカルト『省察』、山田弘明訳、ちくま学芸文庫、136頁)。

お、実体の定義きた!特性、性質、属性という言葉も出てきている。アリストテレス-トマス的な意味を残していると考えてもいいのかな~?

 「思考がそこに直接内在する実体は、精神mensと呼ばれる。私はここで魂animaというよりも精神ということにする。魂という語は両義的であり、しばしば物体的な事物にも用いられるからである」(同上)。

 「場所的延長や、形・位置・場所的運動など、延長が前提する偶有性の直接の基体である実体は物体corpusと呼ばれる。しかし精神および物体と呼ばれるものが同じ一つの実体であるか、それとも二つの異なる実体であるかは、後に探求されるべきであろう」(同上)。

なるほど、デカルトの場合、実体とは具体的には精神と物体のことなのか。あ!これが噂の思惟実体と延長実体という奴かな?スコラ以前と、定義はあまり変わっていないような気もするけど、これは新しい論点かもしれないな。

 それでは次にデカルトの『哲学原理』を読んでみましょう。こちらも、索引がついているので自分の知りたい箇所だけ読んでいきます。

 「各々の実体には一つの主要属性がある。精神の思惟と物体の延長というように。たしかに、どのような属性からも実体は認識される。しかし、各々の実体には一つの主要な固有性があり、これがその実体の本性と本質を構成し、他のすべての固有性はそれに帰されるのである。すなわち、長さ、幅、深さにおける延長が物体的実体の本性を構成し、思惟が思惟する実体の本性を構成する。というのは、物体に帰属しうる他のすべてのものは延長を前提し、延長する事物の何らかの様態にすぎないからである。同じように、精神のうちに見いだされるすべてのものは、さまざまな思惟の様態にすぎない。このように、たとえば形は延長する事物においてしか理解できないし、運動は延長する空間においてしか、また、想像も感覚も意志も思惟する事物においてしか理解できない。しかし、それとは逆に延長は形や運動なしでも理解できるし、思惟は創造や感覚なしでも理解できる」(デカルト『哲学原理』、山田弘明訳、ちくま学芸文庫、213頁)。

なるほど、精神の思惟と物体の延長がそれぞれの実体の主要属性で、運動だとか形は物体的実体の、想像だとか感覚は思惟実体の様態に過ぎないんだな。アリストテレス-トマス的な実体の定義からそこまで逸脱していないにも関わらず、延長だとか思惟だとか、新しい観点が入っていて面白いな。

続・趣味ではじめる哲学研究~趣味で調べる哲学史②」に続きます。

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