「革命」と名がつけばロマンなのか
《孫文、日本に来てHNを中山とする》
あれは「中華民国の国父」と呼ばれる孫文の生誕150周年だった2016年、
「孫中山記念館」がある香港でも、色々なイベントが催されておりました。
こっちでは勿論「国父」ではなくて、「民主革命運動の先行者としての孫文」という位置づけになります。
そういう慶祝記念イベントの一環として学術交流の通訳をする事になった私は、交流会に向け一人孫文の事を勉強しておりました(↓香港の孫中山記念館)
ちなみに孫文というのが名前。孫文は何度もニックネーム替えをし、中山というのが割と後期の通り名です。中山という通り名に変えたいきさつは下のウィキに書いてありますので興味のある方は是非ご覧ください。
《辛亥革命とは》
辛亥革命110年目に当たる今年2021年。
当時、皇帝制を敷いていた清朝のラストエンペラー宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位して(これで「清の滅亡」としています)、アジア初の共和制国家中華民国が誕生するに至った事件です。
でも、これは当時の色んな状況、事情が複雑に絡み合っているのです。
+ 日本(←もう、昔から変わらない構図)合計8か国が攻撃を仕掛けていたり(総司令官はイギリスなのに、列強に巧い事言われ利用されて、日本が一番大きな兵力を出し、見た目首謀者的な都合の悪い責任全部押し付けられたような状況)
ここに至るまでには以前記事で紹介したアヘン戦争も尾を引いていたり。
それとは別に、中国自身が元々抱える民族対立というお家事情など、色々な要素が絡んだ上で、孫文的にはある意味棚ボタ的に(革命分子と呼ばれる人達が周りで頑張ってくれて)中華民国の大統領に就任したというお話。
《人は見た目や地位で決まる?》
そこらへんを細かく書くとキリがないので割愛しますが、この仕事以前、私は「革命の父」と称される孫文についても、歴史の授業で習うくらいの事しか存じ上げませんでした。
だから孫文に対するイメージも「革命という偉業を成し遂げた人。」くらいの認識でした。
でも、色々な文献を読んで、色々なエピソードを知れば知る程・・・
何これ・・良く言えば風流?お調子者?人たらし?(特に異性)・・・何、中国で結婚してて、日本に来て重婚、更に妾。
革命資金集めだと言って、日本に行っても、ドイツに行っても、フランスに行っても、他人に歓待され、居候し、資金援助をもらい、家まであてがってもらい、(でもヨーロッパで孫文を歓待したのは中国人で、外国人でホントに手放しで孫文を応援しているのは「やっぱり」日本人)世話になりっぱなし。
ず~っと人の財布からお金を引き出すばかりでんがな(;^_^A
世話されてる方もしてる方も「革命の成功こそが何よりのお返し」という事なのでしょうが、それだって当の本人は蜂起して失敗の度に、日本、アメリカ、ロンドン、等の外国に亡命し、マレーシアやシンガポールで革命活動をしているだけで、直接自分が命のやり取りをする現場にはほとんど居合わせておらず。実際に革命蜂起をしているのは孫文に影響を受けた革命分子の人たちという構図。
ん?ん?ん?この人自身が成し遂げた偉業って・・・。
1911年10月に勃発した頃は孫文は中国にはおらず、既に清が滅亡し、共和制にしましょうという話がついていた状況で12月25日にフランスから上海に帰ってくると革命分子たちが大歓迎をして3日後の28日に中華民国初代大統領に就任。
そしてまた、周囲の色々な事情などがあるものの、とにかく史実としては、孫文は大統領就任後、わずか2か月弱の1912年2月13日に辞表を出し、その座をさっさと袁世凱に明け渡します。
・・・う~ん何だろう・・・何か、私、孫文の事、あんまり知らない方が印象が良かったな~という感じでした。
たくさんの当時日本の時の人だった人達も、皆喜んで孫文に資金援助しました。それはそれは気前よく。
「革命」—―——
その言葉に血沸き肉躍るものを感じてしまうものなのでしょうか。
志していた医学の道も捨て(医者として開業もしていました)革命に生涯を捧げたと言えば、かっこよく聞こえてしまうのでしょうか。
孫文のこの整った顔立ち、医者という職の崇高なイメージ、革命にかける情熱、雄弁、大風呂敷を広げ夢物語を熱く語った青年が人の運、時の運、色んなものが味方について、たまたま「革命の父」の座に収まってしまったように感じられてしまいます。
もちろん、私は「運も実力の内」だとは思いますが。