手紙の断捨離②~狭きを知る~
整理・処分した手紙の中に、一通だけ差出人が私の物が残っていました。
つまり私が最後まで出さなかった手紙でした。
それは過去に日本で行われた中国語弁論大会の参加申し込みと日本語、中国語の原稿、それを録音したカセットテープでした。
1996年開催のヤツを今まで捨てもせずに手元に残してありました。
そもそもカセットテープに録音までして出してないって何?
私は大学三年生で北京に留学して以来、日本に戻ってからも大学在学中から(北京語専攻で大学でも習い続けているにも関わらず)プライベートでも、ずっと中国語の個人教師をつけていました。
北京留学の時、そこの日本語を勉強したい中国人大学生と、中国語をグレードアップさせたい日本人との間でランゲージエクスチェンジ(交互に教え合う)というのが一般化していました。
その時のカテキョーの先生が、北京大の文学部の人で、すごく文才のある人でした。とても細やかに私が言わんとしている事を「痒い所に手が届く」程に汲み取ってくれるスゴイ人でした。
語学留学でただでさえ中国語漬けでしたが、それにプラスαのカテキョーは学校の宿題をやるにも、わからない所を全部詳しく解説してもらえるので、このカテキョーのお陰で、自分の中国語レベルが飛躍的にアップするのを感じる事ができました。
この時初めて「カテキョーは勉強についていけない人が雇うんじゃなくて、自分でついていける人も雇った方がいいのだ」という事を理解しました。
自分でついていける人がカテキョーを雇うと、いちいち先生が細かく解説しないところまで突っ込んで聞く事ができます。「私の先生」という気安さから、ちょっとでも不明瞭なところは理解できるまで聞いてやろう、という気持ちが働きます。
自分の興味の惹かれる部分をグっと掘り下げることができ、弱い所を補強することができるのです。
で、留学から戻った後大学に戻ると、今度はうちの大学に中国から留学に来ている人たちを管理している学生局から請われて家庭教師に就くことになりました。
その習慣は社会人になっても変わらず、地元に就職した私はいち早く地元の市のボランティア通訳、国際交流運営委員、県の弁護士協会などの色んな団体に登録をして、そのツテで地元のテレビ局に交換研修に来ていた中国人Sとランゲージエクスチェンジする事になりました。
Sは私より5つ年上の男性記者でしたが、初対面の時から仏頂面で、いつ会っても不機嫌でイライラしていました。
勉強は会社が彼に用意した古い一軒家で週二ペースでした。家に行くと、家が古いせいなのか、いつも臭い靴下みたいな匂いがしていてゲンナリでした。
Sが毎回不機嫌なので何か私に不満があるのかと思い、止めたいと思ったものの、その頃はNOと言えない日本人だったので私からは言い出せず、Sも不機嫌な割には「止めよう」とは言ってこないので続いていました。
当時、県下の日中交流のボランティア団体の活動に色々参加していた関係で、この中国語弁論大会の話を薦められたのでした。
で、Sに私の原稿を手直ししてもらいながら仕上げましたが自分的には自分で書いた原稿が読んでも全く面白くなくてスゴく気に入らなかったのです。
北京留学時のカテキョーだったら、私のこの退屈な文章を、もっとドラマチックに展開してくれるだろうに、Sは自分の記事原稿をまとめるのにいつも忙しそうで、中国語が正しいか間違っているかのチェックだけしかしてくれません。記者なのに原稿自体に対するアドバイスも何もありません。
言葉のプロでありながら、どうしてもっと真剣に考えてくれないのか、と自分で書き上げたつまらない原稿を棚に上げて、当時の私は腹を立てていました。
そして、中国や香港でよく「日本は過去の侵略の歴史を学校で教えていない」と報道されて叩かれていますが教えていない事はありません。
現に現代史を習う事で、私のように「中国人は日本の事をすごく恨んでいる」というイメージを植え付けられる日本人も結構いるのではないかと思います。
当時の私はそういう事も言いたくて原稿を書いたのですが、今になって読み返してみると、中国語の原稿の方が過去の歴史を「一点都不了解(全く理解できていなかった)」と直されていました。
オイ"(-""-)"/
Sは字面だけ訂正しておきながら、こんな所はちゃっかり書き換えていました。
以下、引用部分は今の私が書き足した説明を加えた当時の原稿です。
「中国語を勉強し始めて間もなく「一衣帯水(いちいたいすい)」という言葉を習いました。
*「一 衣帶 水」は一本の帶みたいな細い河川に隔てられた隣国という意味です。が、1972年日中が国交を回復させる前に日中共同声明というのが発表されたのですが、その時に「中国と日本は一筋の海を隔てたお隣さんなのだから」という事で、河川と海にこだわらずに使用されました。
興味がある方は下のウィキから入ると、目次部分の右側に「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」という枠があり、そこから中国語、英語、日本語の条文リンクに飛べます↓↓
これは二つの国がとても近くにあるという意味で、中国語ではとてもいい言葉だと聞きましたが、これを習った時、私は少し違和感を感じました。
よくニュースで日本は歴史を正しく教えていないと非難を受けたという報道がありますが、日本の中学、高校では歴史を勉強します。日本が過去に行った中国などの侵略行為に至っては文章を読むだけでしたがきちんと書かれていました。
「歴史」というのは、過去にあった歴史を事実として学ぶものであり、ここに感情的なものの介入はあるべきではないと思います。
現にアメリカに原爆を落とされた事も同様に文章を読んで学びますが、それによって個人的にアメリカを恨む事はあっても、日本の行っている授業において、日本の反アメリカ感情を助長させる事がないのが良い例です。
多くの学生は自国の犯した行為が具体的にどういうものであったのかまでは知るに至りませんが、中国人が侵略に来た日本人を恨んでいると書かれているのは頭に残ります。
そこに具体的な侵略行為の描写などなくても、その行為があったという事実の記載だけで、色んな戦争映画などから、侵略行為で何が行われるか、言わずとも理解できるものではないでしょうか。
「悪い事をしました」とわざわざ書かなくても中高生にもなれば「悪い事」だと判断できます。
そういう意味で、私は日本の歴史教育には、他国から非難されるほどの落ち度はないと思います。
実際、現代史を学んだ私の頭には「中国=反日感情」という言葉だけしかありませんでした。
だから「一衣帯水」が友好的な意味で使われている言葉だと聞いて、ひどく不自然に思いました。
日本では、よく中国に対して「一番遠くて近い国」という言い方をします。
これは地理的には近くても、考え方がまるっきり違っていてお互いに理解することは難しい、という意味です。
当時私は、両国の関係を示すのに「一番近くて遠い国」という言葉は、何と的確なんだろうと思っていました。事実、中国と日本の友好の歴史は始まって長い年月が経っていますが、両国民の間にある溝は全く埋められていないままと感じるからです。
その感じ方は今も基本的には変わっていませんが、こんな不安定な関係を何とか変えられないものか、と考えるようになりました。初めて中国に行った時、余りの広大さと人の多さに圧倒された事、想像以上に発展していた事、自分の接した中国人が皆とても親切で友好的だった事。
たくさんの驚きと感動を、もっと多くの人に知らせたい、そう思うのです。「中国は汚くて危なくて貧しい」と思っている日本人と「日本人は一人残らず金持ちである」と信じている中国人に「どちらも違います」と教えたいです。
私は中国が大好きです。
確かにベンツの横に馬車が走っていたり、大きな家の横に、今にも壊れそうなバラック小屋があったり、貧富の差は依然存在し、その差はとてつもなく大きいのですが、どの中国人にも共通しているあの生命力。
中国人のあの躍動的な雰囲気を、私は日本人としてとても羨ましく思います。日本の「時間に支配された雰囲気」とは違ったあの空気が私を虜にして止まないのです。できる事なら両国民が個人レベルで理解し合えるように何とか手助けがしたい、私の中国語はとても拙いけれども、そう願っているのです。」
この原稿を読み終えて私は、カセットテープに吹き込んでまで送らなかった当時の自分の心情が手に取るようにわかりました。
って言うか、自分の事なので当時の心情が鮮やかに蘇ってきました。
自分のこの退屈で人を引き込む力のない原稿で弁論大会に参加したくなかったのでしょう。この原稿では勝てない、そう思ったから出す前から諦めたのでしょう。敵前逃亡です。
自分のこの未熟な荒削りの何かのたたき台でしかないような原稿が、誰かの力で叩いて面白く化けさせてもらえなかった事に八つ当たり的に腹を立てたのでしょう。
・・・もう、青臭いクソガキだな~・・・。
アラフィフの自分が読み返してみると、確かにつまらないながらも、自分が初めて中国に降り立った時の感動や興奮を、自分なりに人に伝えたかったのだろうな~という情熱も、自分が日中友好活動に何か貢献したいと思って、私なりに真剣に考えていたんだな~というのも感じます。
(この痛々しい拙い文章・・自分だから、かろうじて感じられるのでしょうけど)
今では日中友好に貢献とか、中国が大好きです、という気持ちも当時と全く同じとは言い切れない部分もありますが。
この出さなかった手紙を読んで、自分が如何に心が狭く、了見が狭く、視野が狭かったのかを思い知らされました。そらもう、カセットテープなんざ聞くまでもなくゴミ箱行です。さいなら。
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