自由という名の非自由
見田宗介の論壇時評『白いお城と花咲く野原』から、いくつかnoteに残しておこうと思う。本記事はその2回目。
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自由という名の非自由 ー窒息しそうな子供たち(1985年3月28日)
自由といえば自由"競争"と短絡するのは、人間はすべてエゴイストであるというまずしい人間観である。競争しない自由、自分のぺースで生きる自由が根底にあってはじめて、時には競争する自由もまた楽しいのだ。競争を強いられるほどに過酷な不自由はない。
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『白いお城と花咲く野原』の時評の中で、一番興味を持った時評かもしれない。
競争を強いられるほどの不自由。
人の評価、社会的価値観等、何かに駆り立てられて動かされる自分ほど、辛いものはない。自分ではない自分を演じることを強制させられるからだ。
現在転職前の有休消化中(約3週間)なのだが、この期間をどう使うか悩みに悩んだ。ただ好きな本を読んで、運動して、たんたんと過ぎれば良いと思っていたが、結局旅行を1回入れることにした。いろいろな人に相談しての結果である。行かなくてもいいけど行く旅行。なんとも中途半端な感情で行く旅行である。
本記事は、教育の「自由化」についてのものである。受験戦争についての批判からの時評であるが、現代にも十分通用する内容かと思う。
見田は最後に次のように述べる。
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明治以来の、就学率の異常な高さを下敷きに産業化を走り続けた日本近代百年の総体を問う射程をもつと同時に、近代世界総体の<自由>の観念の実質を、具体的に問い返すことなくしては、説かれることのない構造を持っている。
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この文章を読んだとき、丸山眞男の本郷で行われた「戦後初めての講義(1945年)」で述べられた以下を思い出した。
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われわれは今日、外国によって「自由」をあてがはれ強制された。しかし、あてがはれた自由、強制された自由とは実は本質的な矛盾である。自由とは、日本国民が自らの事柄を自らの精神を以て決するの謂に外ならぬからである。われわれは、かかる真の自由を獲得すべく、換言するならば、所与としての自由を内面的な自由にまで高めるべく、血みどろの努力を続けねばならないのである。
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見田にしろ丸山にしろ、「自由」を自分たちで考える必要性を説く。それは親や教師、強いては国家や社会システム(社会的価値観)からの駆り立てをはじき、自らの手で選択し、自らの足で歩む強さが必要なのだと思った。