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あなたは細くて切れそうな絹糸です

星の巡りとともにうつろう、その時期特有のこころ模様を、世界から聞こえてくる聲を織りまぜエピソード的に紹介していく《ほしこころ》シリーズ。文末にそのときどきの傾向や過ごし方のヒントを添えた「ほしこころ memo」もあります。あわせてお楽しみいただけたら幸いです☆彡

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《ほしこころ 〜蟹座・夏至編:あなたは細くて切れそうな絹糸です》

10年ほど前、3ヶ月のブラジル滞在から帰国して、いろいろあって途方に暮れていたときふいと立ち寄った早稲田の預言カフェ*で言われたのが表題の言葉だった。

「あなたは毛糸や木綿のような太い糸ではなく、とても細くて切れそうな絹糸です。」

というのがフルセンテンスで、あの頃はまだいまよりもスピリチュアル的なものに対して懐疑的だったので、これがただの言葉であれば

「そういう部分もあるかもしれないけど、そこまでかなぁ?」

という程度で流していたかもしれない。けれども、これを言われた瞬間、ハートがたしかにブルルッと震えたのが自分でもわかったのだ。

けっきょく自分のハートの震えを無視することができず、真偽はさておき、その言葉をいちど真摯に受け止めてみることにした。たしかに、もうこれ以上「絹糸」である自分をないことにして生きていくことはできない、目の前の現実もそのように示していた。そうはいっても、切れそうな絹糸が切れそうなまま、現実問題どうしたら生きていけるのだろうか?たとえ切れそうな絹糸であっても、鋼鉄とはいわないまでもせめて木綿のふりをして生きるしか、それまでのわたしには選択肢はなかった。

感じすぎる自分を、感じないように感じないように感覚に蓋をして生きていくことはもうできない。

かといって自分の感覚を開いたままこの世界に存在するなんてことが、どうしたらできるのだろうか?

でも、いまにしておもえば、自分自身の感覚を無視して生きるとは、自分を無視して生きることにほかならないのだった。

自分が自分とともにいてあげること。

そのことが、果てしなく難しかったし、自分を置き去りにして、他者の世界を優先していた方がずっと楽だった。

そうして10年かけて、ようやく自分が自分を置き去りにしてしまっているときの不快感にだんだんと気づけるようになり、気づくまでのタイムラグもだいぶ短くなっていまに至る、という感じなのだけれども、いまだに木綿と思い込み、自分自身の感覚を無視して置き去りにしてしまう癖は、ふとしたときに顔をだし、そのたびにノックダウンされては「そうだった、切れそうな絹糸だった」ということを何度でも思い起こすことになるのだった。

つい、木綿や毛糸の糸と、自分を勘違いしてしまう。

つい、そのつもりで洗濯機で思い切り脱水にかけてしまう。

本当は手洗い表示なのに。

わたしもみんなのようであれたらどんなによいだろう

わたしもみんなのようであれたら

(そもそも、みんなって、だれだ?)

洗濯機で脱水にかけてボロボロになった自分をみて、自分がボロボロであることよりも、ただただそのことだけが哀しい。なぜ脱水にかけてはだめなのか、洗濯機ではだめなのか。考えてもしかたのない問いが頭を離れない。

なんどか洗濯機にかければ、そのうち慣れるのではないか?

なんども試したけれど、だめなものはだめなのだ。

木綿は木綿、絹は絹。

それは変わりようがない。

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エイミー・ベンダーという、アメリカの現代作家の書いた「幕間」**という素晴らしい短編がある。たまに、ワークショップや講座などでも紹介しているのだけれども、すべてにまちがったラベルのついた王国で、自分を「ヤギ」と思い込み、ネズミを「人喰い鬼」と思い込んで生きてきて身も心もボロボロになってしまった猫のお話。物語の後半、自分自身と世界の本当の姿に気づきはじめたときの描写は、何度読んでも胸に迫るものがある。

「天国そのものの味でした」

これまで自分をヤギと思い込み、おかしなものを食べては吐いて、を続けていた猫が初めて自分の感覚を信じて、「毒」とラベルのついた瓶に入った、本当には「ミルク」を自分のために皿に注ぎ、それをおそるおそる口にしたとき、猫はこれまでに感じたことのない幸せを感じる。

まちがったラベルの呪縛から自由になる瞬間。

だれしもが、不思議なことに、本来の自分とは小さく、ときに大きくズレたところで生きている。

自分が自分の中心にどしんと座る瞬間、それを精神科医である高橋和巳さんは著書のなかで「主観性を取り戻す」という表現をされていた。

どうにもならない現実に右往左往し、右往左往した挙句どうにかすることを心底あきらめたとき、自分からも、他者からも、世界からも独立した「主観」が立ち上がる。自分の外部で起こること、内部で起こること、それを静かに自分の中心で見つめている「私」。そして、それこそが「私」なのだ、と気づいたときに人はこれまでに「私」と思い込んでいたラベル=呪縛から自由になり解放される。

エイミーの物語のおもしろいところは、ラベルのまちがいに気づきはじめた猫が、もうゴツゴツの岩だらけの山には登りたくない、そして、この「毒」かもしれない白い液体を口にしたい、その欲求に素直に従った先にその”解放”があった、ということだ。ヤギならこうすべし、という行動から自由になり、「毒」と書かれていようがなんだろうが、私にとってはこれがごちそう、そのようになにかを選択しはじめた瞬間、こころも世界も彩りを取り戻す。

自分のいのちを生かすもの、殺すもの

それを知っているのは自分しかいない。

まちがいだらけの王国に住むわたしたちが、世界に、そして自分のこころにいのちに彩りを取り戻すために必要なこと。エイミーの”猫”は、そのことをちょっぴりコミカルに、でも哀しく痛ましいまでに私たちに伝えてくれている。


*ほしこころ memo*

金環日食をともなう今年の夏至。そこに至るまでのここから数週間、強い太陽の光が月(=ひとのこころのもっともやわらかな部分)を背後から照らし、梅雨時期もかさなって、それぞれのなかの古傷が疼いたり、ウェットな(ときにじめじめした)こころの揺れを普段よりも感じやすくなるかもしれません。こころの細やかな震えは、自分自身にとっての大事なセンサー。この機会にぜひふるふると震える繊細なハートに耳を傾けてみてください。 そして、そんなこころの奥底から浮かび上がってくるさまざまな記憶や想い、とくに自分自身への無価値感、のようなものに紐づくものを発見したときは、いまいちどまじまじと見つめ、感じ、もういらないな、と思ったら、そっと愛をおくり軽やかにさようならをする、そんなことを心がけてみるとよいかもしれません^^さよならソングには、藤井風さんのHELP EVER HURT NEVERより「何なんw」おすすめです。Be Happy!! 

藤井風 --何なんw
https://www.youtube.com/watch?v=Nt6ZwuVzOS4

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* 預言カフェは、早稲田にあるコーヒーや紅茶などを普通のカフェのように注文すると、おもむろに女性が現われ、1〜2分ほどの「預言」ももらえる、という一風変わったカフェのこと(キリスト教系の団体が母体のようだけれども、「預言」そのものには宗教バイアスのようなものもそこまでなく、ハイアーセルフからのメッセージをわりとダイレクトに伝えてくれる。ちょっとした観光名所のような風勢。最新事情はわかりかねるので、行かれる場合はご自身の判断でお願いします)。

**「幕間」は、文芸誌「すばる」2006年11月号に掲載された。管啓次郎訳。書籍化はされていない。



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