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合理的配慮とは、愛と思いやり

DAY13。
今日は節分ですね。わが家は豆まきをする予定です。まだお腹が緩い子がいるので、恵方巻は考え中です。

私には3人の息子がいるのだが、長男は軽度知的障がいがある。
育て方を模索しているうちに、特別支援教育に行きつきました。

思うところを書こうとすると、専門的な言葉になりがちで、そこに定義など入れながら書こうとしていったら、要点がまとまらなくなってしまいましたが、今日は特別支援について思うところをつらつらと書いています。

特別支援教育とは

特別支援教育とは、文部科学省によると以下のことが書いてある。

障がいのある子どもたちが、
・将来、自立して、社会で生きていくために、
・子どもたちが主体的に取り組むことを支援する
・一人一人が必要とすることを見定めて把握し、
・個人の持っている力を高めるため、
・生活や学習で困っていることを改善・克服するため、
そのための指導や支援を行うということ。
文部科学省ウェブページ、原文はこちら

昔は特殊教育という名のもと、障がいのある子どもは健常児と分けて教育することが、子どもたちの力を伸ばすために良いと考えられていた。平成19年に改正された。この頃には障がい児は分けられた学級や学校に通い、健常児からは見えない世界にいたことになる。さらに昔は、精神薄弱児などと呼ばれて閉じ込められていた時代もある。現在は、障がいがあっても教育制度から排除されず、障がいがある者とない者が共に学び、社会参加していく共生社会が目指されている。
この、共に学ぶ仕組みがインクルーシブ教育システムと呼ばれ、生活する地域で初等中等教育の機会が与えられ、個人に必要な合理的配慮が提供されることが必要とされている(原文はこちら)。

これはあくまでも私個人の所感だが、今目指している(らしい)インクルーシブ教育は自治体によってまちまちである。様々あるのは自治体だけでなく、障がい児の親の認識も人によってずいぶん違う。統一感がなく、弊害が起きたり、不満につながっているように感じた。
・障がい児と健常児がごちゃまぜならいい(一緒に育つ良さがある。ただ、支援の手立てがないと、子ども達にとっても支援する側にとっても悲惨なことになると私は考えている)。
・インクルーシブ教育をするなら、知的な遅れがない、通常学級の授業内容を理解でき、ついていける子どもという条件付きである(特別支援学校の元校長が教育委員会の上の方にいると、ここにこだわり、知的な判定があると親や本人が希望しても通常学級に入れないことがある)
・障がい児と健常児が一緒に学んではいるが、障がい児に対する支援が不適切(例えば、支援が手厚すぎて、障がい児の自主性を阻害してしまっている。支援者の知識不足によるところも大きいと感じる)

などである。つまり、インクルーシブ教育はまだ目指している途中段階なのだと感じている。障がい児を14年間育ててきて(小中と特別支援学級で来ているので、色んな同級生のお子さん、親御さんと接してきた)、その中で特別支援教育を学び、保育園と小学校で2年ずつ働いてきて感じているのは、特別支援教育に携わる人数、もっというと特別支援についての教育的機会の圧倒的少なさだ。

欧米では、特別支援教育はもっと専門的な分野で、大学院まで出て実地も積まないと専門職にはなれない。日本では、公立小中学校にいる特別支援コーディネーターは、専門的に学んだわけではなく、通常の教員が兼任することが多い。
日本の教員免許をとるための大学のカリキュラムには、特別支援についての必須科目はない。介護等体験という、特別支援学校や高齢者施設などでの、1週間ほどの実習はあるのだが、特別支援の資格を取ろうとしないかぎり、特別支援についての学びはないのだ。特別支援学校の先生こそ、特別支援教諭の免許が必要になるが、公立の小学校や中学校の中にある「特別支援学級」は、その資格は必要ないのが現状だ。
補助員・支援員の先生も、中には力を入れて教育している自治体はあるものの、実は特別支援についての知識は浅いことがほとんど。なぜなら、学ぶ場所や機会がないからだ。
最近は、色んな特性の子が増えてきていて、いわゆるグレーゾーン(私はこの言い方が好きではありませんが)のお子さんは10%を超えているという統計がある。その対応を学ぶために、自由に出席していい研修があったりするが、必須ではなく、ただでさえ忙しい教職員は、なかなか研修にいく余裕がない現状がある。

ではどうするか

それは、私たち、気づいた者から、学び、働きかけていくしかないのではないかと、私は思っている。保護者としてでも、支援員としてでも、地域の住民としてでもいい。

みんなの学校』という素晴らしいドキュメンタリーの映画がある。大阪にある公立の大空小学校の実話なのだが、この中で、地域の住民としてできることを、と、登下校の見守りをする方が出てくる。地域で育った子どもは、育って大人になって、地域に返っていく。だったらそのサポートをしよう、というのは、子どもを持つも持たないにも関係なく、社会に貢献できることだなと感じたエピソードだ。

共生する社会に向けて、どんな子どももその子らしく生きる社会の実現に向けて行動しようとするとき、大事にしていることがある。ほかどんな「目指すこと」「ありたい姿」でも同じだが、そのとき、戦わないことを大事にしたい。
なぜかというと、何かをしようとして戦っているとき、目的を達成するための方法にこだわっていることが殆どだ。例えば、担任の先生と話し合いがうまくいかずすれ違ってるとき、目的は「子どもの幸せ」なのになぜか戦っている。どんなトピックでもそう。正義と正義があるから戦ってしまう。
こと、子どものことに関しては目的はシンプルで、子どもの幸せが目的だ。そのための環境やシステム(教員や学校)だと思う。

ここで、最近耳にする「合理的配慮」について少し触れる。特にインクルーシブ教育で、障がい児がクラスの中での困難さを軽減するために、学校に対してお願いをすることができる。

「合理的配慮」とは、「障害のある子どもが、他の子どもと平等に「教育を受ける権利」を享有・行使することを確保するために、学校の設置者及び学校が必要かつ適当な変更・調整を行うことであり、障害のある子どもに対し、その状況に応じて、学校教育を受ける場合に個別に必要とされるもの」であり、「学校の設置者及び学校に対して、体制面、財政面において、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」、と定義した。
共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告) 概要、3-(1)より

というのが定義です。
ちょっと分かりにくいかもしれません。

例えば、近視があったら眼鏡をかけたり、耳が聴こえにくかったら補聴器をつけたりします。けれど、板書の文字を写すのにとても苦労する子や、聴覚が鋭すぎて教室中の音を全部拾って聴こえてしまうような子は、「わかりにくい」という理由のために、例えばiPadを使ったり、イヤマフを使ったら、不公平になるからという理由で、ひたすら我慢して耐えていたりします。

障がいというのは、ひとえに〇〇(例えば自閉症)と言っても、色んな子がいて、その子に合わせて困難さは違います。その子一人ひとりに合わせて、どう配慮したらいいかを考えます。とてもうまく機能している学級では、障がいがある子の周りを、自然と友達がサポートしてくれていました。それは、どうしたらお友達が過ごしやすくなるか、自然と考えて行動が出てくる、その子に対する愛と思いやりなんだと思います。

私たちはみんな、赤ちゃんとして生まれてきて、小さい頃はみんな誰かに助けてもらって大きくなりました。歳を重ねていくと、また誰かのお世話になりながら過ごして、この世を去っていきます。けれど、世の中の仕組みを決めているのは、子育てをしている層ではなく、強者の論理で決めているように感じてしまいます。人は皆、また弱者になっていくのに。

生きるのに精いっぱい、自分のことで手一杯となりがちな社会ですが、皆が、いつかは自分が弱者になるかもしれない、助けあって生きられたら、いつも心の中の小さなスペースでいいから、そんな優しさを持てたら、世の中はずいぶんステキになっていくのになと思いました。
今日はとりとめもなく、思ったことを書いてみました。

どなたかの参考になったら幸いです。

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