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うつくしいものの話をしよう

うつくしいと感じる心がはずかしい。
うつくしいという言葉が簡単に浮かんで、発してしまう自分がはずかしい。

小さい頃は頭が良いことがはずかしかった。
名前を間違えて呼ばれることがはずかしかった。
今は自炊していることがはずかしかったりする。
人より何かが少しうまくできたり、
人と違って気まずいことや自分の大切なことに焦点が当たることを、
はずかしいことだと感じるようにできているのだろうと思う。

土がうつくしいんですよ

年明けにインスタで見て一目惚れした郡司製陶所のオーバルプレート。
特徴的なデザインではないし、なぜだかわからないけれど、
見た瞬間に特別にうつくしく感じた。
数日間頭から離れなくて、やはり買おうとミナペルホネンのお店に向かった。
スタッフの方からアドバイスをいただきながら気に入った一枚を選び、
こんなことを聞いたら困惑されるだろうかと思いつつ、なぜこんなにもうつくしいと感じるんですかね、とわたしが言うと、スタッフの方は、やっぱりね、土が違うんですよ、と教えてくれた。

この言葉は、いろんなことを教えてくれた。わたしが普段使うような、その形をしてさえいればいいような皿とはまるで違うこと。土という素材そのものはうつくしいこと。うつくしいという言葉を突然発しても、驚かれず、むしろ当然のように溶けていく空間があること。自分がなぜそれを途方もなく、無性にうつくしいと思うのだろうか、ということに思い悩む必要はなく、なぜならそれは、それ自体がうつくしいのだから、それをうつくしいという言葉で表現するのを厭わなくてよい、ということ。
うまく言葉にできないけれど、最後の部分なんかは、長田弘さんの世界観が反映されているように思う。
いま読んでいる長田さんの『すべてきみに宛てた手紙』というエッセイ集のなかで、ジャズベーシストのチャールズ・ミンガスの言葉が紹介されていた。

「子どもたちに音楽を聴かせたい」と、ベーシストは言いました。「この社会に蔓延する騒音をすこしでもとりのぞいて、耳をもっているすべての人が、いい音楽を聴くためにその耳をつかうことができるようにしたいと思う」
そして、「騒音はもう充分すぎるほどあたえられてきた」ことを諌めて、作曲家は言ったのでした。「子どもたちに音楽をあたえよう!騒音ではない、ほんものの音楽を聴かせよう。子どもたちよ!みずからの責任において、じぶんの道を歩みなさい!」

長田弘『すべてきみに宛てた手紙』

この文章のなかの、耳や音楽を、自分がうつくしいと思うものに置き換えると、
目があり、耳があり、心があるわたしたちはすべて、うつくしいものを受けとる権利があり、うつくしいものをうつくしいとする権利があり、自分の世界をうつくしいと思うもので満たす権利がある、と勇気づけられる気がする。

ずっと見ていられる

プロローグ

8歳の頃、おじいちゃんからクリスマスプレゼントでもらった「ルリユールおじさん」で絵本作家のいせひでこさんを知った。それからは自分でも絵本を買うようになった。いせひでこさんが絵を添えた「最初の質問」で長田弘さんという詩人に出あった。初めて手に取った長田さんの詩集は「世界はうつくしいと」だった。数年前同居することになったおじいちゃんの本棚には、古典作品やカメラについての本が並ぶなかに、長田さんの詩集があった。約束されたみたいに。

自分の感性は、おじいちゃんから受け継いだ部分が大きいという意識が強くある。カメラや音楽や本、それ以外のものも、おじいちゃんが現代を生きていたら同じようなものが好きだろうなあと思う。しっかり話を聞いたことはないけれど、心が弱くなるときがあることも、似ている。おじいちゃんに、戦後や昭和を生きることなく、なんの制限もなく、興味の赴くままに現代を生きて、世界を眺めてみてほしかったと、変なことを考えてみたりもした。

おじいちゃんが乗らなかった飛行機に乗って、
お母さんが憧れていた学部に行って、
お父さんにうらやまれる生き方をして、しみじみ
わたしの目は与えられた目であり、
繋がれてきたすべての目を通して世界を見ていくのだと思う。
そしておもしろい物語に出会うたび、わたしはこれから、おじいちゃんもお母さんもお父さんも出会わない物語にも、今後出会っていくのだと、淡々と思う。

あなたのルーツ、影響を受けたと思う人、もの、はずかしいと思うこと、うつくしいと思うこと、絶対に驚かないと約束するから、そういう話が聞きたい。いつかかならず聞かせてください。

おわり

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