#今日の短歌 なぜ詠むのか~痛みさえも美しく~
今日の短歌
「酩酊の果ての事故とうその記事は君の最期を簡潔に告ぐ」永麗
その知らせは雅楽仲間から突然もたらされた。
仕事中にスマホにメッセージの着信があり、休憩のついでに何の気なしに読んで絶句した。
当時まだ30代だった雅楽仲間の突然の死。
若くして茶道をたしなみ、道具も愛でるいわゆる「へうげもの」だった彼とは話も合い、かなり親しく活動していた。
「何故?」その問いが不毛なことは百も承知だった。その答えが分かったところで彼は帰ってこないし、答えは誰にもわからない。
それから2年近く、私は電車に乗れなくなった。
しばらく体調も優れずお腹にガスがたまって苦しい毎日だった。かなり精神的にダメージが強かったのだ。
それでも私はこの歌を詠んだ。詠まずにはいられなかった。
歌を詠むことは、その事実を眺めること。
眺めるということは、離れて見るということ。
眺めている間、その事実の外側にいられる。
そう、あたかも事実のみを簡潔に告げるその新聞記事のように、事実を事実として受け止めることが出来る。
日本人はこのようにして、古代から現代まで、天皇から名もなき防人まで、折に触れて歌を詠んで来た。
五七五七七の調べに、ありとあらゆる想いを載せて来たのだ。
恋しさも、愛おしさも、悲しみも、痛みも、死でさえも、美しく切り取ってアーカイブする。それが日本の「歌」の文化である。