「平家物語」なクイズスレ感想戦 ~後半戦~(№210)
【はじめに】
この記事では、2020年10月23日にクイズスレで開催した「クイズ平家物語」を振り返っていきます。
前回(前半戦)の記事では、1170年代、鹿ヶ谷の陰謀の後ぐらいまでを題材に出題してきましたが、今回はいよいよ源平合戦を本格的に取り上げます。
ちなみに、この動画をやるキッカケとなったのは、2020年10月4日にYouTubeにアップされた中田敦彦のYouTube大学『平家物語』の動画です。
日本史と軍記物語(古典文学)としての違いには留意しつつ、Wikipedia穴埋め形式の問題を中心に30問出題しましたので、ぜひ平安末期の流れを抑える際の参考になさってください。
後半戦
前半戦の最後にお話しした「平維盛」を大将とした平氏軍と、「源頼朝」とその弟「源義経」らによる源氏軍が、いよいよ相まみえ……
(相まみえ)ずに、平氏軍が撤退したのが「富士川の戦い」です。『水鳥の羽音』のエピソードは古くから語り継がれてきた著名なワンシーンです。
源氏に大敗を喫した平氏軍でしたが、反抗的だったのは源氏だけではなく、老いた「平清盛」は、南都の焼き討ちにかかります。ではここで問題です。
中世日本史でも複数回登場します「南都(なんと)」とは、現在で言う所の奈良県のこと。(南都北嶺などという場合は、奈良県興福寺を指すことも)京都・平安京からみて、奈良の都・平城京が「南」にあったからです。
富士川の戦いの翌年(1181年)春、興福寺や東大寺などを焼き討ちし、興福寺は全焼、東大寺も、寺の中枢部を失うほどの業火でした。
しかし、それから程なくして、平清盛は謎の熱病に罹って倒れることとなります。軍記物には、南都焼討の「仏罰」などという見方もありました。
平清盛は、1181年、享年64で亡くなります。富士川の戦いで大敗をした翌年でした。上記の遺言を固く誓った平氏の中枢は、源氏との和睦を断じ、その後の全面対決に繋がっていきます。
この頃、平安京を始めとする日本列島は、こうした状況下にありました。
現代日本人には「飢饉」が一切想像できないですが、前近代の歴史において飢饉は、大きく歴史を左右するケースが多々ありました。
平清盛が没し、養和の飢饉によって多くの死者が出てから2年後の1183年、平氏軍が数万の兵を遣わすも、木曽義仲軍に大敗を喫したのが、現・富山県で起きた「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」です。
問われている知識は、唐突な「世界史」問でしたが、まあこういうのも唐突に出してジャンルのバランスを取るのがクイズスレです、ご了承ください。
古来にも使用例はあるものの、この倶利伽羅峠の戦いで実際に使われたのかは論が複数あるという「火牛」の戦術。
『牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つ』という作戦は、史実かどうかは別としても、この「倶利伽羅峠の戦い」のみならず、「源平合戦」全体を通じても著名なエピソードです。
この戦いで、平氏軍は数万単位の兵を失い、この戦いに勝利した義仲軍は、倶利伽羅峠の戦いの後、入洛することとなります。
そんな入洛した「木曽義仲」に対して、時の後白河法皇は、こんな異名を与えたとされています。
中田さんが動画内で演じたほどに「イケイケなパリピ」だったのかは分かりませんがww 木曽義仲が、頼朝よりも先に入洛しました。
また、先ほどの「養和の飢饉」の項から引用しますが、
木曽義仲軍は、後から来た「義経・頼朝軍」と「粟津の戦い」で対決することとなります。壇ノ浦の戦いの前年、1184年春のことです。
頼朝より先に入洛し、『平家物語』によれば「朝日将軍」の名まで与えられたという木曽義仲も最期を迎えます。
そしていよいよ、源頼朝から遣わされた「源義経」軍は平氏を西国へと追い詰めていくこととなります。これも良く知られた戦いでしょう。
いわゆる『鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし』は、『平家物語』で創られた虚構という説も有力ですが、古くから語られるエピソードです。
中田さんのYouTube大学で、義経は「やっちゃいなよ、的なオラオラ系」に演じられていますが、そうした脚色も含めてストーリーとして楽しむのが、『平家物語』なのかも知れませんね~
この「一ノ谷の戦い」で、平氏軍は数多くの有力武将を討取られたとされ、一気に戦力を削がれることとなりました。 その前後の戦いなども通じて、いよいよ1185年を迎えることとなります。
して奇襲を行ったとされ、『那須与一』の扇のエピソードがとにかく有名な「屋島の戦い」は、現在の香川県高松市を舞台に行われた戦いです。ここでも源氏軍が勝利します。時に、旧暦2月19日のことです。
壇ノ浦の戦い とその後
その翌月、長門国の赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われたのが、源平合戦(治承・寿永の乱)の最後として知られる「壇ノ浦の戦い」です。
この戦いで、(前半戦から見てきた)栄華を誇った「平家が滅亡」します。滅亡に際して、幼い安徳天皇や、その母にして平清盛の娘である建礼門院らが壇ノ浦に入水。その時、皇室に伝わる「三種の神器」を携えていました。
「三種の神器」の『現存・消失論議』も、興味のある方は、一度読んでみて下さい。企画内で、現在の物は「レプリカ」なのかという論が出ましたが、いわゆる「レプリカ」とは少し違った見解なものとなっています。
三種の神器に限らず、この「壇ノ浦の戦い」によって、古代と中世、そして現代に至るまで様々な物に影響を及ぼしています。例えば、
平家を討ち取るなど「最大の戦勲」を挙げた源義経は、兄・頼朝と対立することとなり、奥州・平泉の地で無念の死を遂げます。
奥州藤原氏4代もここで途絶えますが、2011年に世界遺産に登録されるなど史跡などとして今も語り継がれています。
平成の時代に「平家物語」を語り継ぐ試みとしては、この方の功績も非常に大きかったのではないでしょうか。昭和から平成にかけての国民的歌手。
「赤穂浪士」を『俵星玄蕃』などの長編歌謡浪曲で歌い上げた三波春夫が、平成のメロディーに乗せて歌い上げます。
しかし、平成になって一気に衰退してしまっているものもあります。歴史の教科書でも必ずと言って良いほどのこれです。
昭和の時代までは、複数名いらっしゃったようですが、この平成から令和にかけて、『琵琶法師』という存在が、ここまでなってしまっていることを、今回の作問を通じて初めて知りました。
と、ここまで『平家物語』について説明してきましたが、多くの方がやはり「源平合戦」は千年近く前の出来事で、自分には全く馴染みが無いことだと思ってしまっているのではないかと思います。
しかし、我々の生活にも根付いているものが幾つかあります。例えば……
例えば、『紅白歌合戦』や『紅白戦』、『紅白帽』などといった形で、現代にも伝わる『紅白』の色分け。
紅白を男女で分けるというのが、NHK紅白歌合戦などで定着している節がありますが、もともとは、「源平合戦」での旗印だったと言われています。
【おわりに】
平家が隆盛を極め、そして没落をして滅んでいく。まさしく、
この出だしを体現するかのごときものとなりました。
史実でない創作や脚色も多く含まれているため、これをそのまま事実だとして捉えてしまうと、日本史の授業的には良くないかも知れません。中田敦彦のYouTube大学でも、あっちゃんは繰り返し『文学』だと語っていました。エクストリーム日本史としてではなくです。
しかし、古代から中世への転換期となる「源平合戦」の時代の、流れを把握するにあたって、非常に楽しみながら学べる題材だったのではないかと思います。
ぜひ、詳しい方というよりも、日本史や前近代史の流れがしっかりと覚えられていない方にとって、この記事などを通じて、少しでも理解を深めるキッカケになれば幸いに思います。それではまた次の記事でお会いしましょう。Rxでした、ではまたっ!