【小説】愛の稜線【第5回】#創作大賞2023
黄色い皮に包まれた焼売は、柔らかく、口の中でふわりと溶ける。
十月始め、金曜の夜の今日、わたしは早めに仕事を切り上げた譲さんと、難波で待ち合わせをした。「面白いとこ」に行くためだが、その前に食事を済ませると言う。
十九時すぎ、南海の難波駅から少し歩き、譲さんに連れられて入った一芳亭は、二階建ての小さな店だが、ひっきりなしに客が訪れている。彼が「これを食べとかなあかん」という焼売は、これまで食べてきたそれとは全くの別物だ。ふわりとした食感と旨味が、口の中にじんわりとひろがっていく。
「な? 美味いやろ」
夢中で箸を運んでいると、譲さんがビールを飲みながらニヤリとした。
「めっちゃ美味しい」
彼に注いでもらったビールを口に運びながら、感想を伝える。彼は満足そうに頷いて、今度は一緒に頼んだ若鶏の唐揚げを齧っている。パリパリにローストされたそれも、湯気が立っている。わたしも唐揚げを手掴みで口に運んだ。パリパリの皮と、ジューシーな肉が、食欲を一層刺激する。
「これも美味しい」
「せやろ?」
譲さんは満足げだ。仕事からそのままここに着たから、スーツ姿の彼は、腕をまくるようにして、鶏肉を手に取っている。
食べながら、殻入れに骨を捨てる。鳥の脂の付いた指先を舐め、おしぼりで拭く。
二人で、焼売と唐揚げ、ビールを順番に口にしていくと、目の前の皿はすぐに空になった。追加で頼んだスープを飲み干すと、
「ほな行こか」
と譲さんは伝票を手にした。長居する店でもないのだろう。わたしは口を拭き、彼を追った。
「美味しかった」
「そら良かった」
かしこまった店から、B級グルメまで、彼の知っている店は幅広い。そして、選んだ店は決まってその時々の食欲にマッチしている。
後期の授業がはじまってから、わたしは、それまでのだらけた生活を立て直さなければならず、金曜の今日は、疲れが身体にたまっていた。優しい味の焼売は、疲れた身体を癒してくれたようだ。難波から日本橋方面に歩く足も、軽くなったように感じる。
「ちょっと歩くで」
譲さんはわたしの手を取った。難波には人たちが溢れ、広い道幅でも歩きにくい。はぐれないよう、しっかり手を握る。一瞬、四十男と手を繋いで歩く、わたしがどう見えるのか気になる。けれど、人混みの中、わたしたちに視線を向ける人は見当たらなかった。
高架のある国道を抜け、道頓堀を越える。東に向かってしばらくすると、ハングルや、日本語ではない漢字の看板があふれる一帯に辿りついた。スーパーらしきものも見えるが、店名は読めない。行き交う人の話す言葉も、日本語ではなかった。
「ここって、どこ?」
難波のすぐ近くのはずだが、異国に迷い込んだように感じる。
「島之内。知らんか?」
頷いて返す。
それ以上の説明はしないまま、譲さんは路地に足を進める。
「このあたりにも、美味い店あんねん、韓国料理でな。また今度来よか」
看板のネオンも街灯もあるのに、どこか恐いような気がする。それでも、一緒に歩いていくと、古びたマンションの前で、彼は足を止めた。
「ここや」
「こんなん、ただのマンションちゃうの」
思い描いていた「面白いとこ」は、こんなマンションではなかった。
「マンションやけど、ちょっとちゃうねんな。エルドラド、いう店や」
と言いながら、一瞬進みかけた足を、譲さんはまた止めた。
「ナオミちゃん、嫌やったら、すぐに帰るし。言うてくれたらええからな」
腕時計を見ると、針は二十一時ちょうどを指している。譲さんはゆっくり足を進めると、マンションのエレベーターの押しボタンを押した。エレベーターの中には、「ゴミの捨て方」と書かれた紙が貼ってあり、日本語とハングルと中国語らしき漢字が併記してある。
ゴウンゴウンと大きな音がしてから、チャイムのような音がして、扉が開く。乗り込むと、彼は迷わず最上階のボタンを押した。扉が開くと、今度は、角部屋だろう、一番奥の部屋の前まで進んで、チャイムを押した。
チェーンロックをつけたまま扉が開き、一度閉じてから、今度は大きく扉が開いて、ムスクの香りだろうか、クセのある甘い匂いが広がった。
「いらっしゃいませ」
五十代くらいだろう、眼光のするどい男性が、わたしたちを迎え入れた。
玄関で靴を脱いでいると、
「今日は『たっつん』さん、お見えですよ」
と男性が譲さんに告げた。譲さんは、おお、と驚いたような声を出したが、すぐに口の端を上げて笑った。
短い廊下を進むと、薄暗いバーカウンターが見える。どうやらマンションの部屋を改造したらしいその部屋は、細長いカウンターの奥に酒のボトルが並び、カウンターのある空間の反対側には、薄いカーテンで仕切られた空間がいくつか広がっているようだった。
間接照明でカウンターの様子はうかがうことはできるが、部屋の全体がどういう作りなのかは伺うことができなかった。
カウンターには、三十代くらいのカップルと、譲さんと同じくらいの歳の、細身の男性が座っている。
「おっ、ジョーさんやんか」
カウンターに向かうと、細身の男性がわたしたちを向いた。
「久しぶりやん」
知り合いなのだろう、譲さんもうれしそうに返す。譲さんは、細身の男性の隣にわたしを座らせ、自分はわたしを挟み込むようにして、横に座った。
「彼はな、『たっつん』。この子は『ナオミ』ちゃん」
短く説明して、カウンターの内側に戻ったマスターに酒を注文する。わたしにはアルコール少な目のカクテルを頼んでくれた。
「ジョーさんの彼女?」
たっつんはロックのグラスを傾けている。
「そうやで。今日はじめてここに連れてきたから」
譲さんは少し硬い表情で、「はじめて」を大きく発声した。
「ええやん。かわいい子やなぁ」
たっつんはあごを撫で、喉の奥でくっくと音を出して笑った。
「あの、二人は、前からのお友達なんですか?」
聞くと、二人は揃って困ったような顔をした。
「そやなあ。まあ、こういう店で何度か会ってるなぁ」
たっつんは、言葉を選んでいる様子で、そう答えた。
「こういう店って?」
「それは……そのうちわかるわ」
譲さんは困った顔のまま、わたしにカクテルを勧めた。マンションを改造したらしき店、チェーンロックで顔を確認してから入室の許される扉――エルドラドが普通のバーでないことは、なんとなくわかる気がする。けれど、何のためにそうしているかがわからない。
「ジョーさん、最近は遊んどったん?」
「や、全然やで。たっつんは?」
「俺はまぁ……ぼちぼちやなぁ」
二人はわたしを間に挟んだまま、小声で会話している。
カウンターの奥に座っていたカップルが、立ち上がって、カーテンのある空間に移動するのが見えた。ピンクのカーテンは薄く、照明の加減もあるのか、中に入っていった二人のシルエットが透けて見える。
しばらくすると、衣擦れの音がして、二人が服を脱いでいるのがわかった。音が止むと、その後は二人が重なり合うのがシルエットで見える。やがて、荒い息遣いと、甘い声がカーテンの向こうから聞こえてきた。
わたしたちの存在を無視したような――いや、わたしたちの存在があるからこそだろうその行為に、思わず譲さんの顔を覗いたが、彼は驚いた様子も見せず、たっつんと会話を続けている。
呆然とグラスを眺めていると、
「どうした? 驚いたか?」
と譲さんはわたしの顔をのぞき込んだ。
「だって……」
カップルに聞かれないかヒヤヒヤしながら言葉を探す。けれど、それ以上の言葉は見つけられない。
横にいたたっつんが、またくっくと喉で笑い、
「えらいかわいいなぁ」
とわたしの方を向いた。
「せやから、はじめて連れてきたって言うたやろ」
わたしの代わりに譲さんが答える。
カップルの息遣いと甘い声は続いている。部屋で焚かれているのだろう、ムスクの香りに、汗の臭いが混ざって、鼻をついた。
「ナオミちゃん、時間、大丈夫か?」
時間ではなく、わたしの気持ちを推し量りたかったのだろう、譲さんは不安そうにわたしの顔を覗き込んだ。
「う、うん」
彼の耳元に口を寄せ、ちょっと驚いただけ、と伝える。
帰ってもいいのだろうと思った。譲さんはさっきから何度もわたしの顔を覗き込んでいる。わたしの気持ちを推し量ろうとしているのは明らかだった。帰りたかったら、彼の袖をそっと引けばいい。きっとすぐに察してもらえる。
けれど、ここがどんな場所なのか、まだわかっていない。どんな場所なのかわからない不安よりも、好奇心が少しだけ勝った。
それ以上何も言わないわたしの様子に安心したのか、譲さんはたっつんの方を向く。
「たっつんは、ここ、よう来てるん?」
「最近は二、三週間にいっぺんは来てるなぁ」
「前のアドレス使てる?」
「や、最近はLINEばっかしで」
しばらく二人の会話が続き、わたしは口を挟むことなく、ひたすらカクテルに手を伸ばした。グラスが空になると、マスターがまた似たような甘いカクテルを出す。彼らは、そのままLINEを交換したようだった。
わたしはグラスを手に、店内をぐるりと見渡した。薄暗い店内はカーテンの仕切りもあって、細部までは確認できない。けれど、少なくともワンルームの部屋よりはずっと広いように感じられた。一体、どんな空間になっているのだろう――二人の話を聞きながら、カクテルを喉に流し込む。
「ほな、そろそろ出よか」
会話が終わったのか、譲さんがわたしを向いた。腕の時計を見ると、入店してからまだ一時間も経っていない。まだ時間に余裕はあるが、譲さんはさっさとバーカウンターの影になっているところに移動して、その場で支払いを済ませたようだった。
「ジョーさん、また遊ぼうや」
二人で玄関に向かおうとすると、たっつんが手を降る。譲さんもうなずいて手を振り、わたしたちは玄関を出た。
扉を閉まると、チェーンがかけられる音がする。
「今のお店って……」
エレベーターを待ちながら、譲さんの顔を見る。
「どういう店なん?」
「そうやなぁ」
エレベーターに乗ってから、譲さんは首筋を掻いた。
「まあ、フェティッシュバーいうんかなぁ」
「フェティッシュ?」
二十二時になっても、島之内は、さっきと同じように、ネオンと街灯が煌々と街を照らしている。譲さんに手を引かれ、地下鉄の駅へと向かう。
「まあ、なんか色々ありな店なんや」
「そんな説明やったら、ようわからんわ」
カーテンの向こうで睦み合うカップル。それを見ても平然と会話を続ける男性たち。今まで会ったことのない人種に、わたしの頭は混乱していた。
「ナオミちゃん、嫌やなかったか?」
心配げに、譲さんは尋ねる。
「嫌いうんか……ちょっとビックリした」
「そうか」
「あんな店、あるんやね」
「ナオミちゃんが嫌やったら、もう行かへんで」
どう返事すればいいのか、考える。今日見ただけではよくわからなかったが、もう行かなくてもいいような気もする。けれど、彼は始終わたしに気を使ってくれていたから、その様子なら、また行ったとしても、嫌な思いをすることもないだろう。
「特に嫌ってわけでもないかなぁ」
返事すると、譲さんはようやく頬をゆるませた。
「それはそうと、今日の服もかわいいなぁ」
「そう?」
譲さんに貰ったお小遣いで買ったワンピースは、水色で、胸元が大きく開いているデザインだ。フレアに広がる裾はふんわりとしていて、わたしも気に入っている。まだ少し混乱しながらも、褒められたことで、幾分わたしの気持ちは上を向いた。
改札を抜け、電車を待つ。彼は「面白いとこ」だと言ったが、実際にはどうだったのか、判断がつきかねる。このまま消化不良な気持ちを抱えたまま家に帰りたくはない。
「どうする? 今日は家帰るか?」
首を振って否定する。母には後でLINEしておけばいいだろう。反抗的な態度を貫く弟に夢中で、母は、わたしが外泊しても文句は言わなくなっている。
「そうか」
ホームの柱の角、人の見えない位置で、譲さんはわたしを抱き寄せて唇を合わせた。
「そしたら、まだ一緒にいられるな」
彼は鼻歌を歌う。
「それより、ナオミちゃん、お小遣い足りてるか?」
いつもと同じように聞かれて、
「うーん、ちょっと足りないかな」
と答える。前に買った、韓国ブランドのクッションファンデが、そろそろなくなりそうだ。どうせファンデーションを買うなら、今度はデパコスを使ってみたい。
「そしたら、持っとき」
彼はスラックスのポケットから財布を出し、一万円札を二枚抜いて、わたしの手に握らせた。ファンデーションを買うには多すぎるそのお金を黙って受け取って、ポシェットの中の財布にしまう。いつもとりたてた理由はなくお小遣いを貰っているが、今日は特に、貰う権利があるような気がした。
しばらくすると、ホームに列車が入ってくる音楽が流れた。
※
最初は小さな声で、そこから徐々にクレッシェンドしていかなければならない。エリカが弾く前奏を聞きながら、息を吸い込む。ゆっくりとしたテンポに合わせて、そっと歌声をのせていく。三連符ははっきりと。音程の飛躍があるところはフォルテだけれど丁寧に。さっきの「合わせ」で練習したフェルマータのところはエリカの顔を見て呼吸を合わせる。
十月半ば、後期初のレッスンで、わたしは練習時間の短さを補うように、頭をフル回転させながら、「ああ愛する人の」というドナウディーのアリアを歌った。他の生徒と比べて、上手くはないだろう、と自分でも思う。それでも、あまりにめちゃくちゃでは、レッスンが成り立たない。レッスンが成り立つ程度には歌えなければならなかった。
指導教員の高齢女性は、三連符で「パ、パ、パ」と声に出してリズムを強調する。ところどころで「レガート!」「もっとレガート!」という声も飛んでくる。
リタルダントの部分を何度も繰り返し歌い直し、ようやく担当教員のお決まりの「今日のところは、この辺でよろしゅうございます」という言葉が出た。新しい曲は指示されなかったから、今日の曲はまだレッスンが続くことになる。
頭を下げて、エリカとともに研究室の扉を閉める。
「伴奏、ありがとう」
半分は申し訳ない気持ちでエリカに礼を言う。他の指導教員の生徒では、どんどん曲が進む者もいるらしい。あまり優秀とは言えないわたしのレッスンに付き合わせるのは、気が咎めた。
「ええよ、伴奏も練習になるし。楽しいで」
エリカは気にする様子はなく、廊下を進んでいく。花柄のワンピースは派手だが、エリカの容姿によく似合っている。羽織っている白のカーディガンともマッチして、華やかな印象を受けた。
「次、講義あるん?」
聞かれて、首を横に振る。
「ほな、休憩しよう」
そう言うと、エリカも講義がないのだろう、夕方の柔らかな陽が伸びる音楽棟の廊下を進み、練習室に向かった。
アップライトピアノが置かれた部屋は狭く、二人入ればもうスペースがない。エアコンのスイッチの入る季節ではないから、小さな窓を開けると、音楽棟のすぐそばにコスモスが咲いているのが見えた。エリカもわたしもピアノの上に荷物を置いて、ペットボトルを取り出す。
「最近どうなん、譲さんとは?」
「相変わらずやで。美味しいもん食べさしてくれるし、時々お小遣いくれるし」
この前行ったばかりのエルドラドが頭を掠めたが、少し迷ってから、話すのはやめておく。
「エリカは最近どうなん?」
ペットボトルのお茶を、喉に音を立てて飲んでから、エリカはバッグから一枚のチラシを出した。
「うちら、サークル入ってへんやろ? この前、高校のときの友達に誘われて」
渡されたチラシには、「ボランティアサークル『ともしび』」という文字と、「あなたも一緒に活動しませんか?」という文字が見え、老人ホームだろうか、年輩の人たちと大学生くらいの若者が交流しているような写真が添えられている。インカレサークルなのか、参加大学には多くの大学が名を連ねている。
「ボランティア? エリカ、そういうのに興味あったん?」
「ない」
即答すると、エリカはまたペットボトルに口をつけた。
「そしたら、なんでチラシ持ってきたん?」
「『ガクチカ』つけるんやったら、ええかなぁ思って」
「ガクチカ?」
「『学生時代に力を入れたこと』。この前、インターンシップの説明会あったやろ?」
夏期休暇の期間に、家にきていた葉書を思い出す。まだ早いと放っておいたものだ。
「エリカ、説明会行ったん?」
幾分驚きながら尋ねる。エリカがそういったものに興味を覚えるとは思っていなかった。
「うん。考えたんやけどな、ピアノとか、音楽で食べてくの、難しいやん?」
「それはそうやなぁ」
大きく頷く。
音楽を仕事にするには、限られた道しかない。プロの演奏者になるか、教員になるか、音楽教室の講師になるか――思いつくのはそのくらいだ。プロの演奏家になることも、教員になることも、わたしたちには難しい道だった。
「そんでな、それやったら就職しようと思ってん」
エリカは飲み終わったペットボトルを掌でトントン叩いている。
「で、説明会行ったんやけど。就職するならインターンシップいうのんが大事らしくて。で、そのインターンシップに参加すんのも難しいらしいねん」
急に真面目な学生らしいことを言うエリカに戸惑いながら、
「インターンシップて、行くのいつなん?」
と尋ねる。まだ先だという思いがあった。
「三回生の春とか夏とか。あと、一回生から参加できるんもあるらしいけど」
「そんなに早いん?」
「うん。まあ、大きな企業のインターンシップはやっぱ三回生が多いみたいやけど」
「そしたら、まだ考えんでええんちゃうん?」
「そこがミソや。三回生で参加するには、その前にエントリーシート書かなあかんやろ」
「そんなんがいるん?」
「せやねん。で、『ガクチカ』や」
求人している企業では、インターンシップを受けている学生を優先的に採用させることが多い。希望学生の多いインターンシップは、エントリーシートで参加者を振り分ける。インターンシップに参加できるかどうかがかかったエントリーシートには、学生時代に力を入れたこと、通称「ガクチカ」の欄があり、それを埋めるためにサークル活動をしたいのだと、エリカは一気に説明した。
「ダイヤモンドでバイトしたんは書かれへんしな」
エリカは自嘲的に笑った。
「エリカがそんなに真面目に考えてるとは思わんかった」
「真面目っちゅうわけでもないんやけど。でも、ダイヤモンドで色んな客おるやん。で、ブラック企業いうの? あんなんで働いてて大変そうな人いてるしな」
客に絡まれたことを思い出す。どういう企業で働いているかはわからなかったし、同情する気持ちも生まれなかったが、彼は彼なりに大変な思いをしていたのかもしれない。
「で、わたしは絶対ちゃんとしたとこで働こうって。そう思ってたら、ちょうどそん時に高校んときの友達からLINEきて。ボランティアサークル入らへんかって聞かれて」
「でも、何でボランティアサークルなん? 他のサークルでもええんちゃうん?」
「まあな。けど、聞こえがええやろ? ボランティアって。それにここ、そんなに厳しいサークルでもないらしくて、毎回参加せんでもええらしいねん」
「そんなんで『ガクチカ』になるん?」
「書き方次第ちゃう? しらんけど。それにな、老人ホームとか行くときは、音楽活動とかもあるらしくて。そんで、わたしに声かけてきたらしいわ」
たしかに、音楽活動をするのなら、ピアノ科のエリカがいれば心強いだろう。見たこともないエントリーシートを想像する。「ガクチカ」の欄に、ボランティアサークルの活動に力を入れた、と書かれたそれは、きっと真面目な学生を想像させるだろう。
「で、一緒にどうかと思って」
会話がそこまできて、ようやくわたしはエリカに誘われているのだと気が付いた。
「ボランティアかぁ……。老人ホーム以外は何するん?」
「えーと。たしか、児童養護施設に行って子供らと遊んだり、ゴミ拾いとかもあるって言うてたなぁ」
「そういうんはちょっと……」
社会的には意味のある行為なのだろうが、どうにも興味がわいてこない。
「それやったら、わたしと一緒に老人ホームだけ行ったらええねん。ピアノと歌でアンサンブルや」
もしかしたら、エリカは一人で参加することに不安を感じているのかもしれない。伴奏してもらっている恩もあるし、一緒に参加すればわたしの『ガクチカ』も埋まるかもしれない。それでも、わたしは彼女のような強い気持ちを持っているわけではなかった。
「ちょっと、考えとくわ」
どうしても嫌だというわけでもなかったが、言葉を濁す。
「そっか……まあ、考えてみて」
エリカはチラシを畳んで、大事そうにバッグに入れた。
「でも、エリカ、高校んときの友達と繋がってるって、すごいな」
「地元やからな。駅とかで会うし」
わたしの高校も地元だったが、こうしてサークルに誘ってくるような友達はいない。卒業したときに、なんとなくグループになっていた数人で、グループLINEを作ったが、結局四月を過ぎればコメントもなくなってしまった。もともとそんなに強い繋がりもなかったし、互いに今の環境に気持ちが向いているのだろう。
だから、そうしてサークルに誘うような友達がいるエリカは、わたしにはない物があるような気がした。
「就職かぁ……」
天井を仰ぐ。大学ではいつも一緒にいるエリカが、気がつくと随分先を歩いているようだ。もしかしたら、他の学生たちもそうした努力を重ねているのかもしれない。
行きどころのない焦りだけが、天井の有孔ボードに吸い込まれていく。
「ほな、そろそろ帰るけど、どうする?」
ダイヤモンドに向かうのだろう、コンパクトで化粧を確認しながら、エリカは言う。
「もうちょっと練習してから帰るわ」
本当は練習する気はなかったが、一人になりたかった。
「ほな、また明日」
手を振って、エリカを見送る。
姿が見えなくなると、ピアノの扉に肘をついて頭を抱えた。ずっと先だと思っていた現実が、鼻の先に迫っている。
少し開いた窓から、秋の風が吹き込んできた。窓を覗く。音楽棟のすぐそばに咲くコスモスが風に揺られている。そういえば、ポートレートの撮影にはしばらく行っていない。コスモス畑での撮影を想像してみたが、気持ちはなかなか晴れなかった。
※
クリームブリュレのカラメルの部分を、スプーンの背で叩いて割る。それを口に運ぶと、甘みと苦みが混じった味がした。
「美味しい」
テーブルの向かいに座る譲さんに告げると、彼は満足そうに頷いた。
「ビストロやから気取らんでええし、味もええやろ、この店」
十月半ば、後期最初のレッスンがあった週の土曜の夜、わたしたちは譲さんがお勧めだというビストロに来ていた。洋食屋のような小さな店だが、味はたしかにいい。
オードブルやパテ・ド・カンパーニュをつまみに、二人でボトルを開け、譲さんの顔は微かに上気していた。
デザートにタルトタタンを選んだ彼は、コーヒーを飲みながら、それをフォークでつついている。
「ナオミちゃん、今日は泊まってくねんな?」
「うん。さっきLINEしといたし」
友達の家に泊まると母にLINEすると、既読にはなったが、返信はなかった。自宅では弟と母の冷戦がますます激しいものになっているから、わたしのことにかまっていられないのだろう。そして、それをいいことに、譲さんの部屋に泊まる回数はますます増えていた。
譲さんはデザートを食べながら、しきりとポケットのスマートフォンを気にして、何度も取り出しては戻すことを繰り返している。
「どしたん?」
クリームブリュレのねっとりした食感を楽しみながら、声をかける。
「何?」
「さっきからスマホばっか見てるから」
譲さんは首を掻いてから、
「たっつんからLINEきて」
と言い訳のように言った。
しばらくして、それが、エルドラドで会った人だと思い出す。ついこの間行ったばかりだというのに、あの場所はどこか遠い世界のように感じられていた。
「何て?」
「今日、遊びに来ぉへんかって」
「エルドラドに?」
「そう。でも、ナオミちゃん、もう行くん面倒やんなぁ?」
彼はこちらの顔色を窺うように、スマートフォンとわたしの顔とに視線を上下させた。
この店を出たら、譲さんのマンションに行くつもりだった。けれど、マンションに行ったとしても、儀式のようなセックスをして、寝るだけだ。それに、窓に広がる夜景にも、わたしは飽きてきていた。
「なんで今日誘ってきてるん?」
「なんや、コスプレナイトいうイベントやってるらしくてな。盛り上がってるから来ぉへんかって」
彼はLINEの画面を見せた。顔ははっきり写っていないが、女の子たちが数名、バドガールやアニメのキャラの衣装で踊っているような写真が数枚アップされている。
「ふうん」
譲さんが行きたいのであれば、行くのも悪くないと思った。あの夜は驚いていただけだったが、彼はわたしの嫌がることはしなかったし、お小遣いももらえた。写真で、女の子たちがいることがわかったことも、安心感をアップさせた。
「嫌なことされたりせえへん?」
「それは大丈夫や。あそこ、会員制やし、悪さしたら出禁や」
顔を確認しなければ、店の扉を開けてもらえなかったことを思い出す。
「譲さんが行きたいんやったら、行ってもええよ」
わたしがそう言うと、彼は表情を緩めた。
「え、でも、ええん? ナオミちゃん」
「嫌なことはせんでもええんでしょ?」
「そら、もちろんや。お酒飲みに行くだけでもええんやし」
「それやったら、嫌やないよ」
会話が終わる前に、譲さんはスマートフォンを取り出して、なにやらLINEにコメントをしているようだった。
「ほな、行こか」
彼は慌ててデザートの残りを口に放り込む。わたしはエスプレッソをゆっくりと舌で味わった。
立ち上がると、いつものようにわたしが先に店を出て、譲さんが会計を済ますのを待つ。財布をスラックスのポケットに入れながら、彼は店のドアを開けた。
数メートル歩いて大きな道路に出ると、手を挙げてタクシーを止める。
「島之内」
乗り込みながら彼がそう告げると、運転手は眉をピクッと動かして、一瞬、嫌そうな顔をしたような気がした。
それでも、タクシーは目的地に向かって走っていく。一方通行の多いエリアに入ると、譲さんが細かく道順を伝える。しばらくすると、見たことのある古いマンションの前で車は止まった。
「行こう」
マンションの前の階段を駆け上がるようにしてのぼり、譲さんはエレベーターのボタンを押した。また、ゴウンゴウンと大きな音がして、エレベーターはわたしたちを運んだ。前と同じようにして、チェーンロックがついたまま扉が一度開き、一旦閉じてから、大きく開く。
「いらっしゃいませ」
マスターは口の端を上げ、わたしたちを出迎えた。ムスクの香りが鼻をかすめる。
「たっつん、おる?」
「いらっしゃいますよ」
玄関で靴を脱いでいると、ヒップホップミュージックと、女の子たちの笑い声が聞こえた。
「来たで」
「おう」
カウンターの席に一人で座るたっつんに、譲さんは手を挙げる。一緒に座ると、カーテンの手前の薄暗い空間で、コスプレした女の子たちが踊っているのが見えた。
よく見れば、女の子たちの周りには、二十代から三十代くらいだろうか、譲さんたちよりも若い男たちが車座に座り、サイリウムの棒を振ったり、手拍子をとったりしている。
「盛り上がってんなぁ」
ロックのグラスに口をつけると、わたしを挟んで、譲さんがたっつんに声をかけた。
「やろ? せやから誘ってん」
たっつんも満足そうにグラスを傾ける。
「うわー、疲れたー」
中心で踊っていた、二十代後半くらいのスタイルのいい女性が、カウンターに近寄って、マスターにウーロン茶を頼んだ。
「マリちゃん、今日もかわいいなぁ」
たっつんが声をかけると、ふん、と鼻にかけた声で笑い、マリと呼ばれた女性は、当然のようにたっつんの膝に腰をかけた。たっつんは、バドガール姿のマリちゃんの腰に手を回す。
「たっつんさんの彼女さんですか?」
わたしが聞くと、二人は笑って首を振った。
「マリちゃんは彼氏つくらへんねんな?」
たっつんがそう言うと、マリちゃんは頷いた。たっつんの膝に座ったままウーロン茶を飲み、彼の皿からピーナツを取ってポリポリと音を立てて食べる。
「彼氏おったら、遊ばれへんやん。な?」
マリちゃんは同意を求めるようにたっつんの顔に横顔を近づけ、酒をねだった。たっつんはマスターにカクテルを注文する。
カーテンの手前の空間では、女性たちが出入りしては踊っている様子だった。カーテンの奥からは、男性らしき人が女装して登場し、ダンスの輪に混じっている。譲さんはそれを見ながら手を叩いたり、かけ声をかけたりと忙しい。
「コスプレ、せえへんの?」
マリちゃんはわたしの顔を見ながら、カクテルのグラスをぐっと傾けた。
「ナオミちゃんは、ここ、まだ二回目なんやって」
たっつんがそう言うと、マリちゃんは、ふーん、と興味をなくしたようにダンスする女性たちに視線を戻した。
女性たちは、踊り疲れるとその輪を抜け、またしばらくすると、その輪に戻る。彼女たちはそれぞれ、自分に視線を送る男性に酒をねだっているようだった。
ダンスをしたことはないが、男性に酒をねだるのは、ダイヤモンドで働いていたときに何度も経験している。まだエルドラドのシステムはよくわからなかったが、ここの女の子たちも自分の金を使う様子は見られなかった。
「でも、ナオミちゃんがコスプレしたら、盛り上がるで」
マリちゃんがダンスに戻ってしまうと、たっつんはわたしと譲さんの両方を見た。
彼女はスタイルもよい美人だが、他の女の子たちには、十人並の容姿の子も見られる。それでも、彼女たちはコスプレして男たちから歓声を浴び、酒が提供されている。
「そら、ナオミちゃんはかわいいから盛り上がるやろうけど……なぁ?」
譲さんは最近するようになった、こちらの様子を窺うようなじっとりと探るような目でわたしを見る。
「コスプレしてほしいの?」
少し強い口調で彼に聞く。
「嫌やったらええねんで。無理はせんでええ」
慌てたようにそう言うと、譲さんは誤魔化すようにグラスに口をつけた。
コスプレなら、ダイヤモンドでしたことがある。マリちゃんが着ていたようなバドガールの衣装も着たことがある。その時には、無遠慮な視線に晒されたが、何度も着ているうちに、そういった視線にも慣れた。だから、コスプレするのに抵抗感はない。けれど、譲さんの様子に、もったいぶりたいような、不思議な気持ちが芽生えていた。
「嫌ってわけじゃないけど……」
カクテルを飲みながら、そう言って、彼の様子を窺う。譲さんは、そわそわと椅子にかけた足を上下に動かしている。
「譲さんがしてほしいんやったら、してあげる」
少し強気に出る。どう返してくるのかと待っていると、彼は、
「そしたら……」
とカーテンの手前にある、衣装がかかったハンガーラックから、ミニスカポリスの衣装を手に取り、戻ってきた。
「これなんかどうや?」
またじっとりとした目でわたしを見る。
少し間を置いてから、
「ええよ」
とその衣装を受け取った。譲さんは、玄関の近くにあった洗面所に案内してくれる。置いてある脱衣かごに自分の服を脱ぎ捨て、渡されたミニスカポリスの衣装に着替える。洗面所の鏡を見る。胸も腰も足も露出したその服は、それでも、わたしのスタイルをよく見せている。
洗面所を出てカウンターに戻ると、譲さんより先に、たっつんが口笛を吹いた。
「やっぱりよう似合うてる。ナオミちゃん、スタイルええからなぁ」
譲さんは嬉しそうに言うと、マスターにまた新しいわたしのカクテルを頼んだ。
「ねぇ、一緒に踊らない?」
踊りの輪の中から、先程のマリちゃんがこちらに声をかけてくる。酒で上向きになった気分のまま、踊りの輪に入る。踊り方なんてわからないから、腕も足も出鱈目に動かす。
それでも、車座になった男性たちの歓声が聞こえ、わたしの身体に視線が集まるのを感じる。
ひとしきり踊って、カウンターに戻る。嬉しそうな譲さんの横で、たっつんはわたしの胸の隙間に何かを挟んだ。驚いて、譲さんを見る。
「おひねりや。貰っとき」
彼の言葉で、よく見ると、隙間に挟んであるのは一万円札だった。
車座になった男たちも、まだわたしに視線を送っている。もしねだれば、彼らも酒をおごってくれるのだろう。
酒が進んだためか、男たちの視線のためか、あるいは胸に挟まれた一万円札のためなのか――どちらにしても、わたしの気分は高揚した。
「やっぱり、ナオミちゃんかわいいから、注目されるなぁ」
譲さんの顔は弛緩している。
酔って滲んで見える世界の中で、譲さんの褒めそやす声が、幾重にも重なってわたしを包んだ。
(続く)
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