
私の知らない物語
2024年夏、母方の祖母が亡くなった。
やっと気持ちも落ち着いてきたので、ここに回顧録を残す。
祖母という人
祖母は家政高等学校(※)の出身で、料理と裁縫が得意な人だった。
学生時代はバスケットボールをやっていたそうだが、私が物心ついたときにはすでに膝を痛めていたため、残念ながらその運動神経を拝む機会は得られなかった。
家政高等学校(かせいこうとうがっこう)は、主に家政についての専門技術や知識を習得するために「家庭に関する学科」(家政科)が設置されている高等学校のことである。家庭高等学校(かていこうとうがっこう)とも。
その後、祖母は転勤族だった祖父とお見合い結婚し、4人の子を授かった。
山形県内を転々としながら、現代のように便利なツールも何1つ無い中、頼れるものは地域のコミュニティだけというなんとも儚い環境で、ほぼ1人で家事も子育てもやりきった「肝っ玉母さん」である。
立派に育て上げた子どもたちは成人して全国に散らばり、それぞれの場所で家庭を持ち、その結果祖父母にはたくさんの孫ができた。
そのうちの1人が、他でもない私だ。
*****
祖母は、私が0歳から12歳までの間、母と同じかそれよりも長い時間私を育ててくれた、いわば「もう1人の母」である。
祖父母宅は自宅から車で1時間程度の場所にあったので、朝、母は私と兄を祖父母宅まで車で送り、その足で仕事に行っていた。
母を見送りると、私たち兄妹は祖母が作ってくれた朝ごはんを食べ、保育園や小学校に送り届けてもらっていた。
家に帰ると必ず蒸したさつまいもや段ボール箱いっぱいのみかん、それから祖母が作った麦茶が用意されていて、私は母が迎えに来るまでそれらを食べたり飲んだりしながら、山野に囲まれ毎日のびのびと過ごしていた。
そして祖母は、野生児よろしく駆け回る私を、いつも目を細めながら慈しんでくれていたのだった。
余談だが、私の小さいことを気にしない性格と、際限なく横に広がっていく体型の下地はこのときに作られたと言っても過言ではない。
うとましい、だなんて思ってごめんなさい
小学校を卒業すると、私は自宅がある学区の中学校に通うことになっていた。
溺愛する孫との時間が減ることを祖父母は大変寂しがったが、私ときたら毎朝ぎりぎりまで寝ていられる喜びで「休みの日に遊びに来てね」なんてのんきなことを言っていた。
まさに、祖父母の心孫知らず、である。
しかし、中学校に上がり吹奏楽部に入部すると、私の生活は、今までのそれとは一変した。
吹奏楽部は夏と冬に大きな大会が控えており、また年に1度定期演奏会というイベントも抱えていたため、あっという間に土曜日曜も練習漬けの日々となった。平日においては言うまでもない。
*****
そんな状態だったので、休日はなかなか家にいる時間がなく、家にいられたとしてもテスト前で部活が休みになったとかそういう事情なので、たまに祖父母が遊びに来てくれても私はあまり心から喜べなかった。
それどころか、だんだん祖父母をうとましいとすら思ってしまうほどだった。
そんな私の状況を察してか、祖父母は遊びに来るといつも「忙しそうだねぇ。頑張ってるんだね」と少し寂しそうに笑いながら、お茶を1杯だけ飲んだらすぐに「買い物していかないといけないから、もう帰るね」と言って帰っていった。
今になって思えば、我が子のように育ててきた孫と離れ、少ない時間でもいい、せめて一目顔だけでも見られれば、という祖父母の思いに対し、あまりにも非情なことをしてしまった。
そして、もうそれを詫びることもできなくなったと思うと、思い返すたびに胸が痛むのである。
コロナ期を経て
2017年に祖父が亡くなり、祖母はグループホームに入所することになった。
この頃私も東京の地で家庭を持つこととなり、帰省のたびに夫を連れて祖母の所に顔を出していた。
それでも上京してからただでさえなかなか時間が取れない中、短い帰省日程に地元の友人と会う予定なども詰め込んでいたため、どうしても足が遠のきがちになってしまったことは否めない。
グループホームに入ると決まったあたりから、祖母には認知症の症状が出始めていた。
母や父から頻繁に状況を知らせてもらっていたが、やはり1度働きが悪くなってしまった脳細胞が再び活性化するーーーなんてことはなく、祖母は徐々にいろいろなことを忘れていった。
2019年の夏頃、私のところに小さな命が宿った。
そのときの私に、安定期に入ったら、なんて悠長な考えはなく、とにかく帰省したタイミングで直接祖母に伝えなければ、と考えていた。
そしてついに面会となったが、このときすでに祖母の中で私の記憶はまだらになっており、「おなかに赤ちゃんがいるんだよ」と教えても、喜んだその数秒後には記憶がかすれ始めていたようだった。
そして、あの忌々しいパンデミックの時代がやってくるのである。
*****
2020年、私は第一子である長女を出産した。
と同時に、世界中で新型コロナウィルスが爆発的に蔓延し、日本でも緊急事態宣言が出されることとなった。
産後ということも重なり、さらに地元から足が遠のいてしまったため、私は今までよりも頻繁に両親と連絡を取り合うようになった。
祖母の様子を聞くと、やはりコロナの影響で、グループホーム自体が面会を全面的に禁止しているのだという。スタッフの方から様子は聞けるが、母も父も会えていないのだ、と知らされた。
まずいな、と思った。
最後に会ったとき、祖母はもう私のことを忘れかけていた。このままいつ明けるともわからないコロナ期が続き、会えない時間が延びると、祖母はきっと私のことを完全に忘れてしまうだろう。顔も、名前も、声も。
窓越しの手
医療関係者の奮闘により、コロナの感染も比較的落ち着き始めた頃。
娘は2歳になり、昔の私と同じく自由に駆け回る子どもに成長した。
夏の日、私は娘と2人、山形の地を踏んだ。(夫は仕事で別行動)
グループホームはまだ直接の面会はできないが、窓越しであれば少しだけ会って話してもよいのだという。
私は窓越しでもいいから、初めて娘を祖母に会わせたい、と思った。
窓の外で祖母を待つ間、1つ懸念していたことがあった。
それは、娘が祖母を怖がらないだろうか、ということだ。
娘はあまり人見知りをしない子どもだったが、それでも年老いた老婆を目の前に、「あなたのひいおばあちゃんだよ」といったところで、たった2歳の頭で理解できるとは思えない。
祖母を見て、泣いてしまったらどうしよう。
そんな不安が心の中に広がり始めたとき、ガラス窓の向こうに、車いすに乗って祖母がやってきた。
*****
「元気だった?大変だったね」
努めて明るく、会えなかった時間がなんでもなかったかのように話しかける。
しかし、祖母の目に光は無い。スタッフさんは「お昼寝していたところだったから」と言ってくれたが、私は何かもっと違う理由もあるんだろうな、と感じていた。
娘を紹介したが、やはり祖母の頭には「?」が浮かんでいるように見えた。
あまり記憶にない孫の子など、紹介されても戸惑うしかないだろう。
そうしてほとんど実のある話もできずに面会終了の時間を迎え、帰る準備をしていた私の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
「ひいばあば」
そう言って、娘がガラス窓に手を当てると、なんと祖母がガラス越しに娘の手に自分の手を重ねたのである。
そして、娘を見る祖母の目が、まるで子供の頃の私を見ていたときと同じように、また光を宿し始めたのだ。
思わず目元を押さえる。母やスタッフさんもまた、この光景にただ涙をにじませていた。
この中でただ2人、祖母と娘だけが笑顔だった。

贈る言葉
なぜ今になってこんな回顧録を書こうと思ったか。
実は、私は祖母との最期の別れのときに立ち会えていないのだ。
私だけではなく、祖母に育ててもらった孫全員が、「忙しいだろうから」という伯父らの配慮によって、祖母に直接別れの言葉を告げられていない。
幼い頃は1日のほとんどを一緒に過ごした祖母と、まさか最後の最後は一緒にいられないとは、あのときの私が聞いたらどう思うだろう。
人はいつも、大切なものは失ってはじめて気づく。そういうものだ。
常日頃からどんなに小さなことでも大事にしよう。
頭ではわかっている。でも実際は困難だということも知っている。
祖母はもう、最後は私のことを覚えていなかっただろう。
でもそれでいい。私が祖母を思い出す。
こうして思い出を文字に紡いで、何度でも何度でも。
そしていつか、この思い出を持って、私も祖母の元に行く日が来る。
これは、昔も今も想像できない、私の過去と未来を繋ぐ話だ。
いいなと思ったら応援しよう!
