心地よいこと、どんな自分でも
休みの日に動けないことが半年は続いている。今週もそうだった。眠るだけ寝て、少し外に出るだけの力が溜まってようやく夕方に外を散歩したら、気持ちいい風が吹いていて心地よかった。身体も気持ちも少し軽くなって、無印に行きたくなって柔らかいタオルを買った。渋い色のチェック柄。その帰りにスタバでトリプルエスプレッソラテを飲んだ。カフェラテより珈琲をしっかり感じられる。ワンサイズしかないのは、一番いい比率だからなのかな。
いつもいつも調子が良くないと書いているけど、本当なのだから仕方ない。しかも自分の感じとしては、休みの日に休めなくなっている割合が高くなっている分、どうにもできない感じがとても辛い。でも日々においては、これまで理解が難しかったことが自然と分かるような感覚がしたり、悪くない感じはしている。それは自分がそうしたいと思うものに沿って最近過ごすようにしているからかもしれない。たとえば今、坂口恭平さんの『躁鬱大学』を読み返している。自分は鬱になって六年経つが、三年前にこの本を読んでいた。自分に当てはまることが結構書かれていると思ったりしていたけど、それで自分を理解し、肯定しようという頭は当時はなかった。自分の状態は病的であり、だから病気は治すべきものだと思っていた。でも治りたくないという気持ちもあったから(それは今もある)、そこに書かれている自分が楽になること、をやってみようとは思えなかった。それで本を閉じた。 三年が経った今、ふと手に取って読んでみた。するとそこに書かれている内容が、少し距離を取れた状態でスムーズに理解できるのを感じた。ただ苦しくて、何も考えられていないと思っていても日々は積み重ねられていて、その中から自分が少しずつ見えてきたのかもしれない。それからその本を少しずつ読んでいるけど、前と違って心地よいのは、この本が、自分のことを知ることを恥じる必要はないと感じさせてくれるからだ。今苦しんでいる症状、状態は病気の部分ももちろんあるけれど、体質でもあると坂口さんは書いている。前だったら、体質だから仕方ないとは思えなかった。でも今は少しそう思える。このように共感できる部分が増えたのは、それなりに自分の経験が蓄積されたからだという気がする。本のことだけでなく色々な面にしてもそうだけど。自分とは違う箇所が多くても前よりは気にならない。それよりも自分の状態を知ることができる=自分を肯定できる部分を繰り返し読んでいきたい。そうした気持ちになってからは、自分がしたいことは何か、出来なかったとしてもそれが何かを考えることだけでも心地よいことに気づいた。
気分の波というのは本当に厄介で、心地よいものを求めたくない時もある。でもそれはそういう心の状態なのだと自分を理解して、あまり否定せず、心のままに過ごすことを積み重ねていきたいと思いはじめた最近。またすぐにガチガチになってしまうと思うし、鬱に入り込んで苦しんでしまうだろうとは思うけど、自分の気持ちを心地よいことに向けていけば、苦しさや重さでいっぱいになった心が軽くなって、また歩き出せる。解放することを忘れないでいよう。そう思って今回書きました。分かりづらい文章を読んでくださった方が居たとしたら、本当に感謝です。