なぜ日本言語学会は予稿集をやめたのか
まえがきのまえがき
明日から第169回日本言語学会が北大である。私は2022年12月から2024年6月末まで日本言語学会で大会運営委員長を務めていた。その任を外れてから初めての大会になる。
私が委員長だった間に大会のいろんな制度・しくみ・運営を変更した。もちろん組織なのでそれぞれの内容はしかるべき会議体で報告・承認を得ているが,大会内の総会だったり選挙で選ばれた評議員の会議だったりで必ずしも知られる機会が少ないのと,こういう仕事が具体的にどう行われるのか,またどういう意図で行われたのかは分からないので記録として書いておくのも良いと思って記事にした。
私の中で大きいと思っている変更に次の3つだ。
口頭発表件数の上限設定とポスター発表との優先順位付き同時申込対応
懇親会から参加者交流会への変更
口頭発表,ワークショップの動画公開
オンライン発表の許可
予稿集の廃止と資料配布用ページへの移行
実はこれまでも変更点の意図を中心に記事にしたことがある。1点目の発表形態と2点目の参加者交流会については以下の記事にまとまっている。
一方でやってみてどうだったかという感想のようなものも少し書いている。
3点目の動画公開については以下の記事にまとめた。
4点目は私が委員長だった3大会では結局申請がなかったので記事にはしていない。ただこれもそれなりにねらいはあるのでいつか記事にまとめておきたい。
この記事は5点目についてになる。まず実はこれだけは私の在任中に開始できず,規約改訂をして準備だけしてバトンタッチした。もちろんどう進めるかを完全に投げたわけではなく,案はある程度作ってから引き継いでいる。それもあって7月にいちど書いてから公開するのをためらっていたのだが,明日から始まることを考えるとこのタイミングが最後だと思い公開した。
本当のまえがき
大会運営委員長を務めていた日本言語学会では発表者は7ページの原稿を出して予稿集を作成していた。それが第168回大会(2024年6月)をもって廃止され,第169回大会(2024年11月)から発表者が資料を参加者限定のサイトで共有するしくみに改めることになった。
資料の共有は任意だが,資料公開をしたほうがメリットが大きいので,技術的な問題がなければみんな基本的には公開するだろうと思っている。また,参加登録をすれば資料は見られるし,後日配信動画もあるので口頭発表やワークショップなら現地に来なくても発表と質疑を聞くことはできるという点でオンライン学会の利点を活かしたつもりでもある(ただし動画撮影はなしというオプションもある)。
以下は提案した側として考えていたことをまとめたものである。こういうのは期待した効果はでないし,期待しない影響が出るものだと思っている。だから期待と現実のずれでもってだけで評価するつもりはない。もちろん必要なことはそのときの担当者が改善していくのがいいけれど,上でさらっと書いた手続き的なものは疎かにしてはいけないし,1つの変更で生じるいろんな効果(負担の強化)は本当に気を配らないといけないので気軽に何かできるとは思ってほしくない。
スタートはアンケートの声
もともとは学会行事で若手研究者に行ったアンケートに,①予稿集の出版物としての位置づけがはっきりしない,②予稿集はもっと簡単なものでいいのではないかという声があり,検討を依頼されていたのを引き継いでいた(つまり,当初の検討先は前の委員長)。ここへの対応がスタートにあった。これらについてもう少し説明を加える。
理由1 出版物としての位置づけが不明
予稿集にはISBNやISSNがなく,個々の原稿にdoiも付いていない。その点で予稿集は雑誌論文とは異なるが,一方で予稿集の原稿が引用されることもあり,位置づけはけっこう曖昧とも言える。この他に印刷・配布されているため,同じ内容を論文にすると二重発表となる可能性があるということも心配されていた。論文のような出版物ではない以上,発行し続けるかを考え直すことは十分にありえよう。
ちなみに,予稿集の公式の英訳はHandbookだが,Proceedings(発表論文集)と書いているのを見ることがあり,さらにこれを査読付論文としている人がいるとも聞いた。
理由2 予稿集または発表までの負担感
「簡単なものでいいのでは」というのは,予稿集そのものの負担感というよりも,発表までの準備と受け止めた。現在,発表者の募集はおおむね発表の3か月前,予稿集原稿の締切は1か月前に設定されている。そのため,話のロジックは基本的に予稿集提出のタイミング,つまり1か月前には決まるといってもいい。
言語学会では応募時からの大幅な変更は認めていないが,「大幅」の範囲は当然決まってないし,たぶん決められない。私の見た感覚で言えば誤字・脱字の修正は大幅な変更ではないが,新規データの追加は大幅な変更と言われそうな気がする。
こういうのって私は気にしないのだけど,発表内の説明の順序のようなものはやや微妙で,ロジックを変えるものだと人によるのではないだろうか。そうなると,安全側に振って,基本的に何も変えられないと解釈する人が多いことは想像に難くないだろう。
さらに,上述のように2023年の春大会から口頭発表の数に上限を設け,ポスター発表を増やしていった。ポスター発表の形式だと口頭発表とは異なり原稿・論文に近い資料を用意するのはそぐわない感じがあるという人もいる。ただ私自身はICPhSのような巨大国際学会でもProceedings付きポスター発表は多いのでそこまでセットには考えてない。
理由3 応募者の増加に繋がる?
最後に,私が大会運営委員長に就いたとき,40〜50代の中堅層を中心に応募者を増やすことを目標にしていた。この世代は会員全体で占める割合が高いのだが,応募者の中での割合は低い。なお私もこの世代に入る一人だ。
理由は大学の中でもそこそこの役割を持つ人が多く,なかなか気軽に応募できないということが大きいと考えている(「できないのはあなたの能力不足」という声は私だけに向けてね)。もちろん要旨を出すのでそこで質は求められるとしても,予稿集をなくすことでそういう人たちの応募へのハードルを少しでも下げられるのではないかと考えた。
消えた代替案
ちなみに予稿集を廃止して発表論文集に変えることで出版物としての位置づけをはっきりできる。しかし,それは編集を担う組織の負担が大きく,そこまでの大きなメリットになるとも考えづらかったので採用しなかった。
また,発表までの変更点や追加・補足資料を説明する資料を発表後に付けることも考えたが,やはり位置づけはよく分からないし,負担が大きいという点は変わらないので提案には至らなかった。
おわりに
この変更が界隈にどう影響するかは分からない。気軽に決定的な結論に至らないものでも発表する雰囲気を作り,発表者が増えるかもしれないし,発表のレベルが下がったと言われるかもしれない。また,予稿集は事前・事後の読み物としてもけっこう楽しめて,それが失われることの残念感は気になっている。
いずれにせよ,すぐに何かが変わるとも思えないので,少しずつ慣れていき,そして検証を続け,必要に応じてまた良い形に変えていってほしいと思う。
おまけ 予稿集ができた理由と中身の変化
予稿集ができた正確な経緯までは確かめてないのだけど,伝聞によればだいたい次のようなところだと理解している。
もともと学会では発表者が資料(ハンドアウトとかレジュメと呼ばれるもの)を持ってきて,聴衆に配布していた。
しかし,来場者の人数は始まらないと分からない。そのため資料が不足することがあるし,たとえば100人規模の会場だと会場校のスタッフ(多くは学生)に手伝ってもらうことが多くなり,これが会場校にとって負担が大きくなった。
そこであらかじめ発表資料となるものを提出,印刷しようとなった。
そのため私の印象では,私が学会に出始めた2000年前後の予稿集は原稿的(論文的)なものもあれば,いわゆるハンドアウトとかレジュメに近い体裁のものもあったのが,発表時にスライドを使うことが増えてきた2000年代の後半あたりから,予稿集は原稿的なものがかなり増えていった。ただ実は確認しようと思って持っている中で最も古い1997年秋の大会を見直したのだけど,本当にそうなっているのかちょっと自信が持てなくなっている。興味本位でちゃんと分析をしてみたい気もするが,どこで発表すればいいやら。