対話その7|記念日反応について
wish you were hereの対話その7。
今回は命日や誕生日、母の日など、特定の日や季節に亡くした人を思い出して辛い気分になってしまう記念日反応について話しました。
このnoteでも散々書いてきたように、私の場合は毎年冬に記念日反応が起こります。(もしかしたら気質的なものが影響しているかもしれないですが。)
今年の冬は久しぶりにかなりハードな鬱状態になりましたが、春になると見違えるように元気になり、ラジオの収録のときも心なしか声が大きくなってハキハキ喋っているような気がします。
毎年毎年こういうことを繰り返しているのでそろそろ学習してもよさそうなものですが、なかなか学習によって乗り越えられないところが記念日反応の厄介なところです。
18年前と比べると、母が自死で亡くなったという悲しい結末と自分自身の運命とを混同して考えてしまうことは格段に減ったのですが、それでも冬になると強制的に身体と心があの頃にタイムスリップしてしまうようです。その憂鬱は一時的な錯覚だと知っているはずなのに、「今年の冬はもう乗り越えられない」と思い込んでしまうときもあります。
けれどその一方で、春を待つ蛹のように、毎年こういう方法で脱皮を繰り返しているような気もします。
母の命日についての記事でも書いたように、冬の寒さのなかで母と自分自身とを重ねながら何度も記憶をなぞり、そして記憶のなかの母を見送ることが私にとって不可欠な儀式なのかもしれません。
そうやって苦しみながらも冬を越えてやがて春になると、全身から生命力が漲ってきて、生まれ変わったような気分になります。道端の花を見るだけで生きててよかったなぁと思ったりします。
側から見るとかなり情緒不安定なのかもしれませんが。
とはいえ、次の冬がまた来ることを考えると憂鬱なので、2月ぐらいに長めに休みを取ってあたたかい場所に行こうかなぁとか、ちょっと楽しい気分で計画したりもしています。半年後にはもうそれどころではないぐらい鬱になっているかもしれないですが。
逃げようとしても記念日反応は必ずやってくるので、真正面から受け止めて、対策を練って、そうやって少しずつ冬が怖くなくなるといいなと思っています。