英語に意識が向きすぎじゃないか、日本。

出版業界の不況が叫ばれて久しい。簡単に言えば、日本人がそれだけ活字から離れている、ということ。識者が、大人が、本を読めと言ったところで読まない子どもは後を絶たず、それを大げさに、至極大げさに社会は問題視する、フリをしている。

実はこれ、英語教育に国全体が意識を持っていかれていることと無関係では無いんじゃないかな、というのが個人的な意見。

私立小学校、中学校、高等学校と、ある意味どこも生き残りに必死な昨今だけれど、生徒、もとい保護者が学校を選ぶキーワードは「国際」、そして「英語教育」。

日本の英語教育の水準が先進国の中でも下の方にいることは明白。誰もが学生時代に、最低限英語の勉強をする。いや、させられる。させられている意識が強いのが原因なのかは不明だけど、英語を使いこなせている人はそこまでいない。使いこなせている人は、英語の勉強をさせられていた人ではなくて、していた人。受動的か能動的かの違い。ということは、させられている意識を変えなきゃいけないということで、どんどん低年齢層へと英語教育の対象が下りていき、自我が確立する前に英語に触れさせよう、という目論見なのだろう。ただ、結局は義務化になった段階でさせられている感を拭うことはできない。

非常に難しい問題だと思う。もはや低年齢層への英語教育が国の施策となってしまっている今、何もしなくても小学生になったら英語を勉強することになる。そこで、英語が嫌いにならないようにと、未就学児にも英語を習わせるようになる。今や、幼稚園に「英語コース」なんてものすらあるらしい。日常会話を英語でやるんだって。インターナショナル幼稚園なるものも流行っている。月に10万以上の月謝が掛かるらしいけれど、それでも人気を博してる、なんて話も聞く。

仮にこの風潮が続くとして、尚且つ国の施策が成功したとして、今の未就学児が成人した頃、英語を使いこなせる人間は一定数を超えるだろう。国際社会で活躍する人間が今以上に増えるかもしれない。ただ、そこから先のビジョンが見えない。「国際社会で活躍できる人を育てる」とか「ナショナリズム」が云々とか、漠然としすぎている。英語は単なるツール。それが出来るから国際社会で活躍できる、なんて考えるのは短絡的だ。

では、どうすればいいのか。この問題を考えるにあたり、次なるステージに進むと、こう考えざるを得ない。そこで、「理系」というキーワードが出てくるようにもなった。これに関しては割愛するが、正直それもちょっと違和感を覚える。

私が提言したいこと。それは「国語」、もっと言えば「日本語」の強化である。

日本語は難しい。世界に幾つもある言語の中でもトップクラスに難しい。単語の数も多ければ、文法も難しい。言い回しも難しいし、曖昧な表現が多いというのも難しさに拍車を掛けている。方言だって多種ある。難しいからこそ、日本語の使い方が危うい大人も多くいる。正直、私も完璧な日本語を使えているのかはわからない。完璧がどのラインなのかすらわからない。でも、日本語を使っている。それでコミュニケーションを取っている。それで、情報を得ている。思考している。心を動かされている。

それでいいのではないか。

日本という国に生まれ、日本で育つのであれば、そこには日本語での生活が存在するのが当たり前。私たちは日本人。日本語を使うべきなのだ。曖昧だとか、表現がまどろっこしいとか、本音と建前が面倒だとか、もちろんあるけれど、それを含めての日本語ではないのか。

小学校で英語が必修化されることで、煽りを食らうのは国語である。私たちの生活を支える言語を使い、学ぶ授業が減らされ、外国語が増えるなんてもう、本末転倒でしかない。

昨今の英語重視の風潮に危惧を覚えるのは、私だけだろうか。英語に意識が向きすぎじゃないか、日本。

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