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【試論「人工知能概念はいつから存在したといえそうか?」2パス目】「大数学者や大物理学者の時代」の裏側で

とりあえずの出発点は以下の時代区分。

  • 数秘術師や魔術師の時代(イタリア・ルネサンス期~近世)

  • 大数学者や大物理学者の時代(大航海時代~1848年革命の頃)

  • 統計学者と母集団推定の時代(産業革命時代~現代)

  • 機械学習と意味分布論の時代(第二次世界大戦期~現在)

上の投稿で以下まで明らかにしました。

  • 「数秘術師や魔術師の時代」を終焉させたパラダイムシフトは、虚数や自然対数・指数概念の発見そのものというより、莫大な量の計算計算をあらかじめ済ませて作表し出版する様になった「科学諸表革命」であった事。

  • 「機械学習と意味分布論の時代」が始まったパラダイムシフトもまた、ロジスティック回帰分析や単細胞パーセプトロン概念の発明そのもの(1950年代)というより、それがCUI(Character User Interface)に代表されるような、その効力が認知されやすい「逐次型対人応答システム(Man-Machine System)」に実装された事(1970年代)。

逆にいうと「大数学者や大物理学者の時代」と「統計学者と母集団推定の時代」については(このシリーズでは)まだ触れていません。今回の投稿では、そのうち「大数学者や大物理学者の時代」について、相応のイメージ固めが出来たらと考えています。

「ポルノグラフィ弾圧」とその反動

「大数学者と大物理学者の時代」とは、その経済的側面に注目すると伝統的インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層、すなわち王侯貴族や高位聖職者こそが主要消費者だった時代であり、芸術や科学の振興もある程度までは彼らの「気まぐれなパトロネージュ」によって恣意的に定まったのを最大の特徴としています。

  • 若き日のカール・マルクスが斜に構え「独裁制は(どんなに身分と関わりなく賢臣を抜擢して藩屏を固めたとて)最終決定者が独裁者のみであるという本質的宿痾から逃れられない」と指摘したのは、まさにこの話。

君主政を支配するのは政治ではなく思いつきであり,思いつきが政治になるのはそれが誰か第三者にチェックされるときである。君主政においてそれをなすことができないとすれば,思いつきは政治にはならない。

「思いつきは,そこでは思いのとおり,まったく移り気で,無分別で,軽蔑的なものかもしれません。思いつきこそ,まさに人民を支配するには十分なものです。人民は国王の意志以外の別の法律など一度として知ることもなかったのですから――転倒した世界が現実のものであれば,プロイセン国王は末永く時代の人間であるだろうとわたしは考えます」

現実が現実のままであるかぎり,およそ時代からずれた世界がこの世のものであるかぎり,それはそれで権力は維持される。しかしそれはいつまで続くのかということである。青年ドイツを含めてプロイセンでは憲法制定運動が長く続いたが,いまだ憲法はできていなかった。しかし,やがてプロイセン国王はプロイセンを彼のたんなる領地ではなく,国家体制にしようとして,政治的意思を表明する。そのとき,彼は図らずもこのプロイセンは,彼の個人的な所有物にすぎないことを表明することになる。

「プロイセン国王は自分の国家であるプロイセン領域の未来の国家基本法に対する彼の決意と心情を表明しました。実際は,国王こそプロイセン体制なのです。彼が唯一の政治的人間です。彼が行うこと,あるいは誰かが彼にさせること,彼が考えること,誰かが彼の口でいわせること,それがプロイセンでは国家が考え,国家が行っていることなのです。したがって,今日国王がこのことをはっきりと表明したというのは,実際彼の功績です」

国王は,政治を独占することで,臣民を実利的な世界に封印する。しかしそれが君主政の本質なら,永遠に臣民は自由を獲得し,政治を行うことなどできない。だから,臣民が自由を獲得すれば,プロイセン体制は崩壊するしかない。理論的には,改革などありえないのである。

上掲「21世紀的フランス革命の省察3パス目」より的場昭弘「青年マルクスの「革命」観」よりの引用。カール・マルクスとアーノルド・ルーゲとの往復書簡(1843年)への言及箇所。
  • しかしまぁレーニンから「革命的芸術」のお墨付きを受けて繁栄し、スターリンから「反革命芸術」のレッテルを貼られ撲滅されたソ連抽象主義絵画の歴史を眺める限り、共産主義国家ならここでいう「君主政の弊害」を完全に逃れ得たとは到底いえないのであった。

芸術分野における「抑制とその反動」

芸術分野では例えば「絵画におけるエロティック要素は、聖書や神話の場面を選択し寓意的意味合いを持たせた場合においてのみこれを許される」とする西洋絵画の伝統の打ち破られていく過程がなかなか痛快です。

  • ヴェネツィア晩期ルネサンスを代表する画家ティツィアーノ(Tiziano Vecellio、1490年頃~1576年)は「明日をも知れぬ激しい栄枯盛衰の毎日を送るうちに既存倫理観などどうでも良くなったコンドッティエーレ(Condottiere=イタリア傭兵隊長)」を顧客に選ぶ事によってこの制約を超越した「ウルビーノのヴィーナス(Venus of Urbino,1538年)」を残す。その背景には「成功者は書斎を構え、そこを好きな本や絵画で満たす」文化の流行があったという。

  • 「フランス・ロココ芸術の完成者」として名高いフラゴナール(Jean Honoré Fragonard, 1732年~1806年)は、実際には宮廷における政争で敗れ、在野でそれを完成させた。それをパトロネージュしたのは中央集権化の進む絶対王政下に立身出世とは無縁の立場へと追いやられた田舎貴族達で、代表作とされる「ぶらんこ(The Swing, 1768年)」もまた発注主の「スカートの中を思う存分覗きたい」なる依頼に応えたものだった。

  • 19世紀後半のフランスでは芸術アカデミー会員ら守旧派と彼らに取り入ろうとした新興プチブル階層が結託して「絵画におけるエロティック要素は、聖書や神話の場面を選択し寓意的意味合いを持たせた場合においてのみこれを許される」伝統に逆らって「草上の昼食(Le Déjeuner sur l'herbe, The Luncheon on the Grass,1862年~1863年)」「オランピア(Olympia,1863年)」を発表したマネ(Édouard Manet,1832年~1883年)、「ボヴァリー夫人(Madame Bovary,1856年)」を発表したフロベール(Gustave Flaubert, 1821年~1880年)、「悪の華(Les Fleurs du mal,1857年初版)」を発表したボードレール(Charles-Pierre Baudelaire,1821年~1867年)らを弾圧する「売春婦芸術(Pornography)追放運動」が勃発。なお「ポルノグラフィ」なるレッテル張りはこれが史上最初の例となる。

  • 皮肉にも(隠れて)本当に買春に耽溺していたのはむしろ弾圧側。さらには「絵画におけるエロティック要素は、聖書や神話の場面を選択し寓意的意味合いを持たせた場合においてのみこれを許される」を「聖書や神話の場面を選択し寓意的意味合いを持たせさえすればどんなエロも許される」と言い換えて(今日では「アカデミック美術」と呼ばれる様になった)エロチックな絵画を大量生産いていたのもまた、彼ら側だったのである。

  • エキゾチックな題材を選んだ場合もエロの許容範囲は広がり、その影響は「エキゾティズムの源泉」に分類された当事国にまで及んだ。いわゆる「オリエント」問題…

結局、(回路方程式で過渡現象が終わると定常状態に戻る様に)さらに産業革命が進行して(少なくとも表面上は)消費の主体が伝統的インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層、すなわち王侯貴族や高位聖職者から新興ブルジョワや庶民に完全に推移してしまうと事態は竜頭蛇尾的に沈静化してしまう。
過渡現象と回路方程式

  • この流れが逆転したのは20世紀初頭のアメリカ映画界がサイレント時代、やはり「聖書や神話の場面を選択し寓意的意味合いを持たせさえすればどんなエロも許される」方便で聖書ポルノ作品を次々と発表して保守層を激怒させ、これを宥める為に「ハリウッド映画倫理規定(Hays Codeあるいは the Breen Office Production Code、1930年制定、1934年〜1968年履行)」が策定された辺りが契機とも。

サイレント時代の聖書ポルノ映画

こうして全体像を俯瞰すると「大量生産/大量消費を軸に回転する産業革命スタイルが浸透し、消費の主体が伝統的インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層、すなわち王侯貴族や高位聖職者から新興ブルジョワ階層や庶民に推移する過渡期」には、むしろ新興ブルジョワ階層の側から(ある種の身分安堵を求めて)守旧派に擦り寄る新保守層が現れるという歴史的事実が浮かび上がってきますが、この話に触れると長くなるので別投稿にて…

当時の大数学者や大数学者を囲んでいた「封建主義的息苦しさ」

上掲の数学史における「大数学者や大物理学者の時代」も当時の時代精神の影響はしっかり受けてたりしますね。

  • 「方法序説(Discours de la méthode, 1637年)」を著し直交座標系(Cartesian coordinate system)の考案者として礫に名を残したデカルト(René Descartes, 1596年~1650年)はスウェーデン女王クリスティーナから招聘される名誉を受けたが寒冷地帯で早起きを強要され、たちまち死んでしまう。

  • ニュートン卿(Sir Isaac Newton, 1642年~1727年)が微積分概念研究に取り組んだのはロンドンにペストが大流行して大学も閉鎖された1665年から1666年。この時期のニュートンは故郷のウールスソープへと疎開し、その直前に得た奨学金で暮らせた為、学問に専念する生活が送れた。一方、ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646年~1716年)が微積分概念研究に取り組んだのはマインツ選帝侯の使者としてパリ滞在中に侯の死より失職した1673年からカレンベルク侯ヨハン・フリードリヒに顧問官兼図書館長として雇われハノーファーに移住した1676年にかけて。「世界の首都」パリで求職活動の傍らオランダ人数学者/物理学者クリスティアーン・ホイヘンス(Christiaan Huygens,1629年~1695年)らと交流し知的刺激を受けたのも大きいとされる。

  • 「テイラー級数の考案者」ブルック・テイラー(Brook Taylor,1685年~1731年)こそ、その主張の韜晦さ故に時代の流れの中に埋もれてしまったが、同じ王立協会フェローながらスコットランド出身でニュートンの考えを明快に解説してスコットランド啓蒙運動に多くの影響を与えた「マクローリン級数の考案者」コリン・マクローリン(Colin Maclaurin,1698年~1746年)や非国教派牧師を本業に選んだ「ベイズの定理の考案者」トーマス・ベイズ(Thomas Bayes ,1701年~1761年)の名前は後世に伝わった(ただし「ベイズの復権」は比較的最近になってから)。

  • 数々の科学的業績を残してきたスイスのベルヌーイ一族は欧州各国の王侯貴族の寵愛を頼りに宮廷を渡り歩く「出稼ぎ宮廷人一族」でもあった事で知られる。一方、彼らに見出されたオイラー(Leonhard Euler 1707年~1783年)は「数学と子作りにしか興味がない無愛想な男(しかも隻眼)」だったのでフリードリヒ大王から嫌われプロイセン王国首都のベルリン宮廷を追われ、同時期の啓蒙君主エカチェリーナ2世統治下の帝政ロシア首都サンクトペテルブルク宮廷に辿り着く。そこで先祖が芸で身を立てた貴族の娘と結婚。数学研究の傍ら、ひたすら子作りに励み、最初の妻が亡くなるとその妹と再婚してまたもや子作りに励み続けたという(一応はハッピーエンド?)。

  • 天才小年だった頃からブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯爵の寵愛を受け「数学は生活の役に立たない」なる信念からゲッティンゲンの天文学長に就職したガウス(Johann Carl Friedrich Gauß/Carolus Fridericus Gauss, 1777年~1855年)は、投機活動によって蓄財していた事もあり、生涯金に困る事はなかった。そのせいか生前自分の研究成果の大半を発表していない。野心と無縁だったかというとそうでもなく、ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange, 1736年~1813年)と最小二乗法の第一発見者争いを行い(何しろ自説を発表しないので、アルガン(Jean-Robert Argand,1768~1822)とも複素平面第一発見者論争が勃発)、アーベル(1802年~1829年)を冷遇して早逝させたりもしている。

  • 英国の王立協会フェロー(Fellowship of the Royal Society)、フランスにおける科学アカデミー(Académie des sciences)やエコール・ポリテクニーク(École polytechnique,通称X)などはこうした「封建主義的弊害」を緩和する目的で設立されたが、それは同時に「国体維持に十分な火力と機動力を備えた常備軍を中央集権的官僚制の徴税によって賄う主権国家体勢」強化を目的としていた(そもそも「君主が自らの意思で身分に関係なく才能ある者を抜擢する」展開自体が閨閥政治への挑戦とも)。そしてコーシー(Augustin Louis Cauchy, 1789年~1857年)がガロア(Évariste Galois, 1811年~1832年)を冷遇して早逝させた事件は、まさにそちらはそちらで抱える権威主義問題を浮き彫りにした。

  • ガロアの研究を理解しなかったとはいえ、アーベルの研究を継承してガウスの研究を補完する形で歴史にその名を残したドイツ人「数学者」ヤコビ(Carl Gustav Jacob Jacobi, 1804年~1851年)の生涯は(上掲の様な大数学者/大物理学者の面々と比べると)比較的穏健な生涯を送った部類に入る。ケーニヒスベルク大学の数学教授を務め、過労で倒れて以降は国王から年金を受けて一生を過ごした。

この様に「大数学者と大物理学者」の末期には純粋な数学者が現れました。ある意味、数学と物理学の「絶天地通」が成立したのです。
仲滋文「量子力学の誕生と数学」
中根美知代「ハ ミル トンとヤコビの研究における変分法 と1階偏微分方程式(変分法 におけるハ ミル トン・ヤコビ理論の形成過程)」

幾何学を群論の立場から系統立てたエルゲン・プログラムで知られるF.クライン(Felix Christian Klein, 1849年~1925年)は、死後発表された「19世紀の数学(1926年)」の中でこう述べている。「数学は絶えず物理学的な考え方を従えて進み、逆に数学は物理学の方から提起された諸問題を通して強い刺激を受けた」。

上掲、仲滋文「量子力学の誕生と数学」

まだまだ公平世界仮説が根強く浸透し「この世界のありとあらゆる万象にはそれぞれ神様の定めた相応の因果則や出現確率が存在する」と考えられていた時代にあって物理学は、ある意味イタリア・ルネサンス期の人文主義が当時流行した聖書場面の絵画化に不快感を示し「神の事績への接近は、聖書の記述そのものから得られる天啓の積み上げによってのみ展開すべきでさる」と主張した延長線上において「神様らしさ(尤度)を究明する学問」という側面も備えていた訳です。その意味合いにおいて「大数学者」や「大物理学者」にとって天体の運動や自然現象の観測は「神が創造したこの世界そのものという聖書」の解読作業でもあったのが、最後の段階で諸般の事情からその関心が(少なくとも数学者にとっては)「数理そのもの」に移ったとも見て取れます。

翻って最近機械学習界に登場した大規模言語モデル(LLM=Large Language Models) は「(人間が構築してきた)言語空間そのもの」を観察対象とする様になりました。

大規模言語モデル(例: GPTシリーズ)の主要な観察対象と観察目的は以下の通りです。

生成能力と品質の評価: 言語モデルがどれだけ自然なテキストを生成できるかを評価します。生成されたテキストの流暢さ、文法的正確さ、意味の適合性などが評価されます。

文脈理解の評価: モデルが与えられた文脈を理解し、それに基づいて適切な文を生成できるかどうかを評価します。例えば、質問に対する回答の適切性や、特定のトピックに関する情報の適切性などが含まれます。

多様性と一貫性の評価: モデルが多様な文を生成できるかどうか、また生成される文が一貫性を持っているかどうかを評価します。多様性が低い場合、モデルが同じような表現を繰り返し生成する可能性があります。

感情やスタイルの表現: モデルが感情やスタイルを適切に表現できるかどうかを評価します。例えば、文のトーンや感情、スラングやジャーゴンの使用などが含まれます。

外部知識の利用: モデルが外部の知識源(辞書、百科事典、ウェブなど)を適切に活用して生成する能力を評価します。外部知識の正確性や適切性が含まれます。

解釈可能性: モデルが生成したテキストや予測の理由を解釈することができるかどうかを評価します。これにより、モデルの意思決定の透明性や説明性が向上し、信頼性が高まります。

これらの観察目的に基づいて、大規模言語モデルの性能や特性を評価し、改善するための研究が行われています。

質問「大規模言語モデルの主要観察対象と観察目的は何ですか?」へのChatGPTの回答

そう、今や「人間の被造物」たるコンピューターが「(人間が構築してきた)言語空間そのもの(およびそれを観測する自分自身の観測)」を聖書に見立て、こうした全体像の観察を通じて「(そうした構図全体を構築した)神」に迫ろうとする時代となったのです。この構図自体が実に興味深いとは思いませんか?

数学分野における「抑制への反動」

私の知る限り、大きかったのは以下。

  • 四元数カルトの台頭…それまで公に語られてこなかった複素数の延長線上でハミルトン(William Rowan Hamilton, 1805年~1865年)が1843年に発見した「ハミルトンの四元数」こそが既存数学全てを覆すと信じた人々。後にクリフォード代数方面に転戦し現在なお「ルドルフ・シュタイナー系」「バックミン・スターフラー系」と並ぶ数学カルトを絶賛維持中…

晩年のハミルトンは、アルコール中毒に溺れながら誰にも理解されることのない数学研究に没頭し、暴飲暴食による痛風に苦しんだ末に1865年にダブリンの自宅で息を引き取った。遺体が発見された時、ハミルトンの部屋は酒と肉汁にまみれた二百数十冊のノートで埋め尽くされており、この中には正しいもの、誤ったもの、判断のつかないものが入り混じった数式の山が残されていたという。また四元数は一部に「四元数カルト」と呼ぶべき一団を構成するものの、大勢からは無視され、省みられるまでに100年ほどの時間を必要とした。

WSikipedia「ウィリアム・ローワン・ハミルトン」
  • 正規分布原理主義…それまでの「あらゆる物事には神の定めた固有の確率が存在する」と考える伝統が「多くの確率分布はサンプル数を無限大に増やせば正規分布に回帰する」なる考え方に塗り替えられた際、優生主義思想が混じってしばらくカルト化の様相を帯びた。詳しくは別投稿にて。

ガウスが「天体観測や測量の誤差除去用」に考えた誤差関数を「天然のあらゆる場所で観測される普遍的分布」に立脚するパラメトリック統計学に発展させたのは「英国のマルクス主義者」ピアソン(Karl Pearson, 1857年~1936年)とその兄弟子ウェルドン(Walter Frank Raphael Weldon 1860年~1906年)で、ロンドン王立協会理学紀要に出版されたピアソンの論文 「進化の数学理論への貢献」ではナポリのとある蟹の甲羅の大きさが正規分布するデータが添えられた。

全体としてこういう過程はイタリア・ルネサンス期(14世紀-16世紀)、天文学や解剖学が飛躍的に発展したボローニャ大学やパドヴァ大学の教授や学生の間で広まった「科学実証主義(Scientific Positivism)の祖型」新アリストテレス主義(Neo Aristotelianism)に従って進行する様です。

  • 実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。

  • 逆を言えばどんな実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく。

そんな全体像が俯瞰出来たところで、以下続報…

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