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【21世紀的フランス革命の省察5パス目】「ボナパルティズム」概念はマルクスの空想の産物?

以下は「シィエスのフランス革命」を契機に自分なりのフランス革命観を立て直そうという本来の目的からすれば寄り道に該当する考察となりますが、「カール・マルクス当人の思想」への解像度を上げる為にはこういう「瑣末な問題」も面倒がらずきちんと検証しておかなければなりません。そう、他でもない「ボナパルティズム」概念の実相の確認作業です。

現代における「ボナパルティズム」認識

ボナパルティズムということばの本来の意味は、フランス語でナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)およびナポレオン三世に対する支持を意味したが、さらにナポレオン三世の政治体制と政策全体をさすようになった。フランスで帝国主義ということばとボナパルティズムということばは似たような意味であったが、しだいに帝国主義ということばのほうは外政面について用いられるようになり、ボナパルティズムのほうは内政面ないし政治体制について用いられるようになった。

政治体制としてのボナパルティズムについて、初めて規定したのはカール・マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』や『フランスの内乱』などの著作である。マルクスは、国民を支配する能力をブルジョアジーが失い、しかも労働者階級がまだ支配能力を獲得しない時期において可能な唯一の政府形態である、と指摘した。ナポレオン三世の支配は巨大な官僚・軍隊組織に支えられ、この点では絶対王政による統治権力の集中に類似している。ナポレオン三世が代表する階級はフランスにおいてもっとも数の多い分割地農民であった。

このマルクスの指摘に続いてフリードリヒ・エンゲルスは『家族、私有財産および国家の起原』のなかで、支配階級の道具としての国家のなかで「例外国家」があり、それは絶対王政とボナパルティズムであると指摘した。すなわち、ボナパルティズムはブルジョアジーに対してはプロレタリアートの役割を演じ、プロレタリアートに対してはブルジョアジーの役割を演じていると述べた。ビスマルクのドイツ帝国もボナパルティズムの新版である、とも述べている。このエンゲルスの指摘によってボナパルティズムは広く国家形態の一つとして定式化された。ファシズムについてもボナパルティズムとの共通性が認められる。

上掲コトバンク「ボナパルティズム」

せっかくなのでChatGPTにも尋ねてみましょう。

ボナパルティズムは、19世紀初頭にフランスでナポレオン・ボナパルトによって確立された政治的な制度や概念を指します。この用語は、ナポレオン・ボナパルトの政権形態や支配スタイルを指していますが、その後の時代においても類似の政治現象を指すために広く使用されています。

主な特徴として以下の点が挙げられます:
強力な中央集権的な政府: ナポレオン・ボナパルトの統治は、中央集権的で強力な国家権力を特徴としていました。彼は個人的な権威を持ち、政府の中枢に位置することで国の指導力を握りました。
対外的な拡張と軍事的成功: ナポレオンは数々の戦争を指導し、フランス帝国を拡大しました。彼の軍事的な才能と成功は、彼の政権の基盤を強固にしました。
経済体制の改革: ナポレオンはフランスの法典を制定し、行政、司法、商業などの分野で一貫した法的な枠組みを確立しました。これにより、国内の安定と法の統一が進みました。
人民の支持の獲得: ナポレオンは広範な社会層から支持を受けました。特に中産階級と農民層は、彼の統治が相対的な安定と法秩序をもたらしたことから、彼に対する支持が高まりました。
自己任命と終身制: ナポレオンは初めはフランスの執政官として登場しましたが、のちに自らを皇帝に任命し、終身制を確立しました。これにより、国家の最高指導者としての地位を一層確立しました。

ボナパルティズムの影響はフランスだけにとどまらず、ヨーロッパ全体に及びました。ナポレオンの従弟や他のボナパルト家族のメンバーも、彼の死後に政権を握る試みを行い、ボナパルト主義の影響が続きました。

ChatGPT「ボナパルティズムとは何かについて教えてください」の答え

なんだか第一帝政の実績中心の回答となりました。ここで知りたいのは「皇帝ナポレオン三世のボナパルティズム」なので質問しなおしてみましょう。

ナポレオン3世(ルイ=ナポレオン・ボナパルト)は、19世紀のフランスの皇帝であり、彼の統治体制は「ボナパルティズム」として知られています。以下に、彼とボナパルティズムについての基本的な情報を提供します。
ナポレオン3世の経歴:
ナポレオン3世はナポレオン・ボナパルトの甥で、彼の甥っ子として知られています。
彼は1848年の2月革命において臨時政府の大統領に選ばれ、その後1849年には大統領の任期を延長するために憲法改正を行いました。
第二帝政:
1851年12月2日、ナポレオン3世はクーデターを起こし、第二帝政を樹立しました。この出来事は「十二月二日クーデター」として知られています。
1852年12月2日にはフランス皇帝に即位し、以後はナポレオン3世として知られました。
ボナパルティズムの特徴:
ボナパルティズムは、ナポレオン1世の統治体制を模倣し、強力な中央集権的な国家機構を特徴としました。
彼は普通選挙を通じて広範な支持を受け、多くの場合には国民投票によって合法的な権力を確立しました。
政治的安定を求め、強力な行政機構を組織し、国内経済の近代化に努めました。
経済と社会政策:
ナポレオン3世は公共事業や都市改造、鉄道建設などの大規模なプロジェクトを進め、国内経済を活性化させました。
社会政策では、一部の社会階層への手厚い補助金政策や労働者の権利拡大も試みました。
外交政策:
ナポレオン3世は外交においても積極的で、クリミア戦争やイタリア統一戦争に介入しましたが、普墺戦争(普仏戦争)においては失敗し、普仏戦争の結果、普仏戦争でフランスが敗北すると、ナポレオン3世は捕らえられ、第二帝政は崩壊しました。

普仏戦争の敗北により、ナポレオン3世はドイツによって捕らえられ、フランス第三共和政が樹立されました。ボナパルティズムはその後も一定の影響を残しましたが、ナポレオン3世の統治期間が終わり、彼の時代は幕を閉じました。

ChatGPT「皇帝ナポレオン3世のボナパルティズムについて教えてください」の答え

「よくできました」と手を叩きたくなる優等生的模範回答。大いにその権威を失墜させた「メキシコ出兵」に言及しない辺りに優しさすら感じます。

「一部の社会階層への手厚い補助金政策」みたいな曖昧な言い回しで(フランス革命時代に徹底粛清されるも生き延びた)ボルドー優遇政策を仄めかすなど、なかなか大人の対応といえましょう。ちなみに革命政府に睨まれたのも皇帝ナポレオン三世のお眼鏡にかなったのも理由は同じ。「英国への輸出に強い」からでした。だから禁輸されても平気で密輸によって外貨を稼いだりしてしまう訳で…

現代人はその後の歴史研究の成果にも当たる事が出来るので、大体こういう風に全体像を思い浮かべる事が出来ますが、同時代人たるカール・マルクスは違いました。さらには皇帝ナポレオン三世なる「才能が及ばない戦争と外交の分野まで任せたからどっかーんした」稀代の内政の天才「馬上のサン=シモン」を個人的に嫌い、その業績の素晴らしさを完全に見逃してしまったのです。

カール・マルクスの目に映った「ボナパルティズム」

以降は上掲引用で名前の上がっている「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日(Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte, 1852年)」の内容検討に移りたいと思います。まず最初に意識しないといけないのはこの著作の発表が1852年時点である事、すなわち「世界史上初の国際恐慌」1857年恐慌に革命運動が付帯しなかったのを受けてそれまでのプロレタリアート観を全面的に見直す以前の著作だという事。

私の提唱している「1879年認識革命」説に名前を連ねる「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie, 1859年)」で「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」と宣言した「上部構造」のカール・マルクスはまだ出現していない訳です。せっかくの独自ファクターなので、この方面から切り進めていく事にしましょう。

絶対王政下でも、第1次革命のあいだでも、ナポレオン治下でも、官僚制は、ブルジョワジーの階級支配を準備する手段にすぎなかった。復古王政下でも、ルイ・フィリップ治下でも、議会共和制下でも、官僚制は、どんなに自分の権力を求めようとしても、支配階級の道具だった。

カール・マルクス.「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」

この辺りがカール・マルクスの観点の一番残念なところ。幾度もパリに滞在しながら、オノレ・ド・バルザックが「人間喜劇(La Comédie humaine, 1842年~1850年)」で活写した様な当時最も重要な景色、すなわち王侯貴族や聖職者といった伝統的インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層のうち最上流が資本主義社会における大ブルジョワ階層に編入される一方、切り捨てられた膨大な末端が強制的に庶民へと編入されていく景色を見逃してしまっているのです。これを「フランス革命の省察(1890年)」の著者エドマンド・バークが「これがあるから英国にフランス革命は起こらない」と豪語した英国貴族階層の流動性(社会的成功者が次々と迎えられる一方で没落者は容赦無く庶民落ちしていく)と比較する事を思いついていたら、彼の階級史観は別物になっていたに違いありません。なお明治維新期日本でもこれに対応す展開がありました。そう、大名家や公卿が華族として保護される一方、士族の様な末端は庶民落ちを余儀なくされたのです。こうした「荒療治」の結果、庶民文化の質が大いに引き上げられた事が、障子の主体が伝統的インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層からブルジョワ階層や庶民に映る資本主義浸透の第二段階、すなわち「消費革命」を牽引する事になった訳です。

第2のボナパルトの治下になってようやく国家が自立したように見える。国家装置は市民社会に対してしっかり自分を確立したので、その頂点に立つのが12月10日会のボスでも十分なのだ。このボスは、外国から転がり込んできた山師で、酔っ払った暴兵たちによって指導者に祭り上げられた男である。蒸留酒とソーセージで暴兵たちを買収したので、暴兵たちには途切れることなくソーセージを投げてやらなくてはならなくなっている。そんなわけだから、しょんぼりした絶望が、馬鹿にされたという猛烈な屈辱感が、フランスの胸を締めつけ、息を詰まらせている。フランスは自分が汚されたように感じている。

カール・マルクス.「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」

カール・マルクスが本当に皇帝ナポレオン三世が嫌いだった事がありありと解る箇所。しかし実際のところ元祖ナポレオンも、ヒトラーも最初から「制御不能の大物に成長する」と看過されていたら神輿に担ぎ上げられる事もなかった訳で、この辺り痛し痒しとも。山師っぽい見せ掛けと裏腹に炭焼党員に匿われていた亡命時代にフランス社会主義理論に精通(それを証明する論文も幾つも残している)。後に「馬上のサン=シモン」と称えられる内政家としての資質は大統領就任時点で既に備えていたのですが、マルクスには生涯それが見抜けなかったのでした。

しかしそれにもかかわらず国家権力が宙に浮いているわけではない。ボナパルトは、1つの階級を代表しているのだ。それも、フランス社会でもっとも人数の多い階級、分割地農民を代表しているのである。

ブルボン家が大土地所有の王朝であり、オルレアン家が貨幣の王朝であるように、ボナパルト家は農民の王朝、つまりフランスの民衆の王朝なのだ。ブルジョワ議会に服従したボナパルトではなく、ブルジョワ議会をけ散らしたボナパルトが、農民たちの選んだ人物である。3年間、都市はうまい具合に、12月10日の選挙の意味をごまかし、農民たちをだまして帝国の復活をおあずけにしていた。1848年12月10日の選挙結果は、1851年12月2日のクーデタになってはじめて現実のものになった。

分割地農民はとてつもない規模の大衆で、そのメンバーは似たような状況で暮らしているが、おたがいの関係が何重にもなることはない。彼らの生産様式が、彼らをおたがいに交流させるかわりに、おたがいに孤立させている。この孤立を助長しているのが、フランスの劣悪なコミュニケーション手段と農民たちの貧しさである。彼らの生産の場である分割地は、耕作のときに、分業や科学の応用を許さないので、展開が多様になることも、さまざまな才能が発揮されることも、社会関係が豊かになることもない。どの農家もほとんど自給自足している。消費するものの大部分は直接自分たちで作るので、生活に必要なものは、社会との交流ではなく、むしろ自然との交換で手に入れている。分割地があり、農民がいて、農家があると、その横には別の分割地があり、別の農民がいて、別の農家がある。60の農家が集まると村になり、60の村が集まると県になる。こうやってフランス国民の大規模な大衆が、同じ名前のものを単純に足し算してつくられる。たとえばジャガイモを袋に詰めることによってジャガイモの袋ができるように。数百万の家族が暮らしている経済条件によって、彼らの生活様式や利害関心や教養が、他の階級のそれらと分断され、他の階級に敵対しているかぎり、その数百万の家族で階級ができている。分割地農民のあいだにローカルなつながりしかなく、利害関心が同じでも、彼らが連帯せず、国民として結合せず、政治組織をつくらないかぎり、分割地農民は階級にはなっていない。だから彼らは、自分たちの階級の利害関心を、議会を通してであれ、国民公会を通してであれ、自分たちの名前で主張することができない。彼らはみずからを代表することができず、〔誰かに〕代表してもらうしかない。彼らを代表する者は、彼らの代表者であると同時に、どうしても彼らの主人、彼らの上に立つ権威として登場することになってしまう。無制限の統治権力として、彼らを他の階級から守り、彼らに上から雨と日光を送るのである。だから分割地農民の政治的な影響を突き詰めて言えば、統治権力が社会を従属させている、ということになる。

カール・マルクス.「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」

まさしく上掲の「ボナパルティズム」定義そのものに該当する箇所。以前の投稿で紹介した「1840年代のプロレタリアート観」との連続性を感じずにはいられません。
的場昭弘 「青年マルクスの「革命」観」

人民が直接,国家と対峙することの危険性についてはすでにモンテスキューは述べている。モンテスキューは,そうした危険を避けるために貴族社会をその媒介として置いた。しかし,民主政においてそれを担うのは,人民から選ばれた議会である。となると,議会は人民が政治に関心をもたなくなると,どうなるか。それはまさに議会が人民から遊離するときとなるのである。

しかし,世俗的な利己的市民は,政治から離れることによってむしろ経済的利益をえる。それはまさにユダヤ教徒が政治から離れていることで利益をえていたこととおなじである。マルクスは,政治の世界をキリスト教的精神の世界とし,世俗の成果をユダヤ教的精神の世界と考える。だから,こうした政治的解放は,キリスト教徒のユダヤ人化を意味することになる。

マルクスの関心は政治的解放がもつ人権の獲得の問題ではなく,その政治的解放によってうまれた人間の個人主義の感性の問題にある。政治的解放は,あくまでも理念や理想といったものにいろどられ,個人主義は物的な利益によっていろどられる。人間にとって前者は,崇高な思想や使命がないと理解できないが,後者は感性的に理解できる。

的場昭弘 「青年マルクスの「革命」観」「ユダヤ人問題によせて(1843年)」解説

この種の懸念の実際のフランスでの現れ方はもっと混迷を極めたものでした。以下はフローベール「感情教育(L'Éducation sentimentale, 執筆1864年~1869年, 刊行1869年)」に活写された1848年革命直後の風景。

弁護士は赴任した地方の炭鉱町でさんざん苦しめられたため、労働者を憎んでいた。いずれの採炭坑も、臨時政府の名のもとに、それぞれ勝手なことをデローリエに命じるのである。「それに、あの連中のやることときたら、まことに見あげたものでね。リヨン、リール、ル・アーヴル、パリ、どこでもそうさ。外国製品を締めだそうとしている製造業者に倣って、やつらはイギリス、ドイツ、ベルギー、サヴォワの労働者の追放を要求しているんだからな。頭の程度にしたって知れたもんだろう。王政復古のとき話題になった連中の同業職人組合にしたって、いったいなんの役にたったんだ?1830年にはこぞって国民衛兵に入ったわけだが、これを掌握するだけの良識すら持ちあわせていないじゃないか。48年の革命にしたって、その直後、またまた同職組合なるものがそれぞれの旗をかかげて現れただろう。しかも、自分たちの息のかかった民衆代表を、自分たちの利益だけを主張する民衆代表を要求したんだ。砂糖大根地区の議員が砂糖大根のことしか気にかけないのとおなじことさ」。

フローベール「感情教育(1869年)」

「シィエスのフランス革命」によれば、シィエスはまさに同様の混沌を目撃した経験から代議制と政治の専門家育成の必要性を痛感。この時から始まる試行錯誤が最終的に良くも悪くも「いかなる利益団体も代議士を立てて良いが、立候補するのはグランゼコール出身の政治専門家たるべし」なるフランス現代政治に行き着いたという次第。

「代表制とは、人民が自分で行なえる政治的行為は自分で行ない、自分自身では行なえない行為を代表に委ねる制度である」と捉える考え方があるが、シィエスによればそれは間違いである。そのことを説明するのに、シィエスはボルドーに手紙を出すことを例に挙げる。もしパリからボルドーに出す手紙を自分自身で持参したいと思えば、人は誰でも手紙を持ってボルドーまで旅することができる。しかしそのようなことはせずに、手紙の配達は郵便制度に任せ、自分はパリで自分が本来なすべき仕事に励んだ方が、自分にとっても好都合だし、社会全体としても効率がよくなる。分業と協業の組み合わせが網の目のように張り巡らされた社会においては、各自は自分が果たすべき職務に専念し、それ以外の用件はそれを職務とする者を自分の代表者として、彼に委ねるべきなのである。できるだけ多くのものをそれぞれの代表に委ねることが、各人の自由を増大させるのであり、代表制こそが人々の繁栄と自由を、我々が享受し得る最大限にまで拡張する。シィエスは、革命前にアダム・スミスから学んだ分業論を、政治における代表制にまで拡張して考えているのである。

山崎耕一「シィエスのフランス革命」

この辺りどうしても単なる机上の理論家と現場を踏んだ実践家の違いが出てしまうという辺りなのでしょう。こうしてマルクスの「空想」は当時のフランスの「現実」と乖離を起こし始めてしまうのです。

「フランスのビーダーマイヤー」問題の答え合わせ

以前の投稿において(少なくとも1843年時点の)カール・マルクスが「フランス恐怖政治はフランスのビーダーマイヤーが引き起こした」と考えていたという話をしました。

それなら本当に「フランスのビーダーマイヤー」は実在したのでしょうか? ある意味確かに実在はしたのです。ただしマルクスが全く想定しない形で。以下は再びフローベール「感情教育」に活写された1848年革命直後の風景。

人びとは田舎を讃美し、無学な人間のほうが、そうでない人たちよりも生まれながらにしてより良識を身につけているとされた。憎しみが世にはびこっていた。小学校教師に、酒屋にたいする憎しみ。哲学の授業に、歴史の講義に、小説に、赤いチョッキに、長いひげにたいする憎しみ。そして、独立不羈をとなえるあらゆるものに、すべての個性の表明にたいする憎しみである。権威主義を立てなおす必要があったからだ。それがいかなる名のもとに行使されようと、どこから到来するものであろうとかまわない、力であり、権威でありさえすればよかった。

フローベール「感情教育(1869年)」

ここでいう「赤いチョッキ」は「国王と教会の権威に宣戦布告した」政治的ロマン主義者の象徴。とどのつまり、こうして王政復古期を通じて醸成された民衆の反知性主義、すなわち伝統的な知性権威主義に対して湧いた全面的懐疑心こそが19世紀前半にはあれほど跋扈した革命家達を表舞台から一掃した主要因だったといえましょう。

歴史的には、フランス革命、ナポレオンの台頭の中で市民社会という概念が普及したが、王政復古によりその夢が破れ、メッテルニヒによるカールスバート決議などによる検閲強化により再び自由の利かない閉塞的な社会に戻ってしまった。そのような諦念のムードがある中で、市井の人々の中では理想主義的で観念的なものへの反発がおき、理念的なものを追求せず日常的で簡素なものに目を向け、探求する風潮が出てきた。

上掲Wikipedia「ビーダーマイヤー」

もちろんマルクス、「フランスのビーダーマイヤーとドイツのビーダーマイヤーの背後に共通する構造が透けて見える」と看過し、これに逆らわず雌伏する道を選んだ時点で「自滅の道を辿って消滅した」他の革命家とは一線を架しています。だからこそ生き延びる事が出来た訳ですが、果たして両ビーダーマイヤーが類似したのはあくまで彼の生きた時代固有の共振現象としてに過ぎず、その存在がフランス革命末期の恐怖政治時代まで遡れるとは限らない点にまで思い当たっていたかどうか。

1840年代に社会主義の道を歩き始めたマルクスにとっては、フランス革命はつい40年ほど前の世界史的事件でした。

「古典教室」不破社研所長の第6回講義第3課『空想から科学へ』(1章)

とはいえ、当時の欧州における社会変遷は激しく、わずか数年でも激変していきます。ましてやマルクスはドイツ人でフランス史の門外漢。せめて「我々ドイツ人の絶対王政からの脱却欲とフランス人の秩序回復欲は半径を同じくする同一円弧上の対蹠かもしれない」と想像出来ていたなら…

「同じ中心から下された垂線は、回転角によって向きが正反対になる事もある」初歩だよ、ワトスン君?

従って以下の文章は眉にたっぷり唾を刷り込んでから読まねばなりません。

歴史的な伝統によりフランス農民の奇跡信仰が生まれていた。ナポレオンを名乗る男がすべての栄光を取り戻してくれるだろう、というものだ。そして、ナポレオンという名前をもっていることを理由にして、自分こそがその男だと称する個人が出てきた。「父子関係の詮索を禁じる」と規定しているナポレオン法典のおかげである。20年間の放浪生活とグロテスクな冒険をやっていたので、伝説が現実になり、その男がフランス人の皇帝となる。甥の固定観念が実現したのは、フランスで最大多数を擁する階級の固定観念と一致したからだ。

カール・マルクス.「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」
  • そもそも当時のフランスにおける分割地農民の大源流は革命戦争やナポレオン戦争で恩寵を受け(零細)自作農となった元兵士達で、さらに当時の兵士供給階層はフランス王政時代のサン=キュロット(浮浪小作人)階層であった。彼らは恐怖政治の加速に一役買った上、七月革命(1830年)においても独特の役割を果たしたが、時代によって刻々と姿を変えていく彼らの姿を、マルクスの「空想的プロレタリア論」は正確に捉えてないし、そもそも「大量の小作人を自作農に転換した」功績を認められない時点で、お察しという…

  • そもそも皇帝ナポレオン三世は本当に「やらずぶったくり」だったのか。全部とは限らないがフロベール「感情教育」に登場する「砂糖大根地区」概念がマルクスのいう「分割地農民」概念と少なくとも部分的に重なる事はいうまでもない。ところで皇帝ナポレオンの実績の一つは外国人融資家を呼び込んでこれら(零細)砂糖農家をベルギーの製糖所と結ぶ鉄道を敷設する事で彼らの収入を飛躍的に向上させた事。上掲のボルドー優遇政策と合わせ内政面における彼の功績は本当に多岐に及ぶのである。

しかしまぁ最後があんまりだったもので後世の評価はガタ落ち。再評価が始まるまでマルクスの「何もしなかった無能者」史観が世界中で大手を振って流布する展開を迎えたのです。
高山裕二「ボナパルティズム再考」

  • 上掲論文の中に「皇帝ナポレオン三世時代に入って、官僚制は皇帝なしに存続可能なほどシステムとして安定した」なる指摘があるが、この辺り上掲のカール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」からの引用箇所とも重なる部分がないでもないのが興味深い。絶対「個人的に皇帝ナポレオン三世が大嫌い」なる事情さえなければ、もっと鋭い分析が沢山残されていた筈という…

  • なお彼の構築した「後進国に産業革命を導入する最適解システム」、後にドイツ帝国や大日本帝国ばかりか中華人民共和国やベトナム人民共和国にも模倣されたと目されているが「自力で共和制に移行するプロセス」だけはパッケージングされてない(上掲の論文によれば、元々「そういうもの」として構築されている)。フランスでのみそれが実現したのは「(システム的に自らの存在を不要とした上で)決戦に親征して敗北し敵の捕虜となって廃位に追い込まれる」彼の「尊い自打球」のせいだったと考えると、中々感慨深いものがある。なお歴史のこの段階で急進共和派は既に壊滅しており、王党派も内部分裂のせいで代表が立てられなかった事も大きい? おや?ならばパリ・コミューンとは一体何だったのか?ここに新たな謎が…

そんな感じで以下続報…


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