【分布意味論の起源3パス目】漢詩「正気歌」の分布意味論的解釈からスターウォーズの世界に飛躍?
以下の投稿では漢詩「正気歌」の世界について紹介しました。
ここにはまさしく珊瑚虫の群れが珊瑚礁を構築する様に、人間の集団が意味分布空間を構築していく様子がまざまざと刻印されている様です。今回はその内容について分布意味論的アプローチを試みたいと思います。
「外れ値切り捨て」における正規分布概念の援用
以下の投稿においてはカール・マルクス(Karl Marx, 1818年~1883年)がヘーゲル左派や「革命の世紀」の活動家達と滅びを共にせず逞しく生き抜く様子を観察しました。
そこでキーワードとなったのは一様分布論における最尤推定論の援用、すなわち「(原則として表と裏の2種類の出目しかない筈の)コインにおける第3の出目、(原則として6種類の出目しかない筈の)サイコロにおける第7の出目が出た場合への即応能力」でした。
では逆に、他の人はどうして動けなかったかのでしょう? 「変化」がその視野から誤差として切り捨てられていたからです。この過程を別の形で数式化したのがガウス(Carolus Fridericus Gauss, 1777年~1855年)のガウス関数と誤差関数という次第。
$$
ガウス関数(Gaussian function): f(x)=\frac{1}{\sqrt{π}}e^{-x^2}
$$
$$
誤差関数(ERor Function): F(x)=\frac{1}{\sqrt{π}}\int_{x=-∞}^{+∞}e^{-x^2}dx
$$
このままだと累積分布関数が「0から1にかけての分布」となって確率論的に扱えないので「1足して2で割る」処理によって「-1から+1にかけての分布」に直します。
さらに確率変数Xをパラメータ平均(μ)と分散($${σ^2}$$)で分布範囲を微調整可能としたのが、いわゆる正規分布(Normal Distribution)の確率密度関数(PDF=Probability Density Function)と累積分布関数(CDF=Cumulative Distribution Function)となります。
$$
正規分布の確率密度関数(PDF): f(x)=\frac{1}{\sqrt{2π}σ}e^{\frac{-(x-μ)^2}{2σ^2}}
$$
$$
正規分布の累積分布関数関数(CDF): F(x)=\frac{1}{2}(1+erf\frac{x-μ}{\sqrt{2}σ})
$$
この分布は中心からの標準偏差σの距離で概ねの面積=全体に占める確率が求められます。
測度[-σ,+σ]…68%
測度[-2σ,+2σ]…95%
測度[-3σ,+3σ]…99.7%
かかる正規分布概念を援用して、上掲の「(原則として表と裏の2種類の出目しかない筈の)コインにおける第3の出目、(原則として6種類の出目しかない筈の)サイコロにおける第7の出目が出た場合への対応」概念のアップデートを試みてみましょう。
観測対象の単純化の為に、ここではとりあえず人格心理学におけるビッグファイブ理論の様に語彙仮説(Lexical Hypothesis)を採択する。これは「人々の生活において最も重要な人格的特徴が最終的にはその人の言語の一部となる」「その人物のより重要な人格的特徴は単一の単語として言語に変換される可能性が高い」とする考え方で、実際「革命の世紀(1789年~1859年)」におけるフランス人は赤旗を奉じて「国王と教会の権威の全面否定」や「私有財産撤廃」を主張する急進協和派、白旗を奉じて(国王への忠誠やキリスト教的美徳といった)伝統的価値観の墨守を説く王党派、そして三色旗を奉じてどちらの極論にも与しなかった穏便共和派に分断されていたのである(急進協和派も王党派も自滅して、最終的に穏便共和派が勝利)。
ここでさらに「(急進的な表現を多様する)急進派」「(守旧的な表現を多様する)守旧派」「(どちらもあまり使わない)中庸派(いわゆるサイレント・マジョリティ)」が、その使用語彙の客観的観察によって峻別可能とし、その範囲を測度[-α,+α]で特定可能と考えたなら以下の図式が成立する。
こう説明すると、見事に「使用語彙によって人間が三集団に分割された」様に見えますが、実際には細かく見ると圧倒的大多数を占めるサイレント・マジョリティに対して(互いに対立する両端とは限らない)多種多様な少数派の寄り合い世帯が対峙しているだけというケースが多いので様々な問題が生じてくる訳です。
そして、さらなる問題が。ここで正規分布は一見「±∞の範囲」なる表現で全てを網羅している様に見えますが、実際には(ε-δ論法などによって担保される)数え上げ測度の範囲を網羅しているだけに過ぎず「(原則として表と裏の2種類の出目しかない筈の)コインにおける第3の出目、(原則として6種類の出目しかない筈の)サイコロにおける第7の出目が出た場合(上図における「$${\tilde{∞}}$$の世界」)」などにしばしば取り零しを起こしてしまうのです。
かかる「取り零し」は、数え上げ測度の範囲内でも(サイレント・マジョリティからは視野外となる)測度[-α,+α]の外測度範囲でなら十分起こり得る訳で、実際マルクスとそれ以外の「革命の世紀」時代の革命家の命運を分けたのは、そうした全体像に対する感覚の鋭さ/鈍さだったといえましょう。
そもそも産業革命導入の本格化なる「コインにおける第3の出目、サイコロにおける第7の出目」が視野に入っていなかった。
かかる新時代には「国王と教会の権威への抵抗」の意義はガクンと下がり、従って急進共和派の存続意義も急速に低下を余儀なくされていったのだが、その現実も見逃してしまった(むしろ積極的に産業融資家に転じる道を選んだ王党派の方が生存率が高かった)。
まさしく「経済人類学者」カール・ポランニーの提言の通り。「保守派の思想的足跡の支離滅裂さを笑うな。彼らにとっては「生き延びる為の現状への最適化」こそが最優先課題なので、どんな無茶苦茶な方向転換も恐れず遂行する。翻って我々革新派はそれが出来ないばっかりに時代の遺物となりやすい…」しかも過去の成功体験に拘泥する「守株待兔」の常習犯とあっては中々生き延びる上で厳しいものがあった訳です。
もちろん「啐啄の機」を間違えてはいけません。行動を起こすのは時代より早過ぎても遅過ぎても淘汰の対象となってしまうのです。
まさにこの意味合いにおいて、人生で二度もこの種の試練を掻い潜ったカール・マルクスという人物には、それなりの才覚が備わっていたとしか言い様がないという話…
漢詩「正気歌」の意味論的分布
こうして他の例も視野に入れた事によって、やっと本題たる漢詩「正気歌」の意味論的分布を分析する体制が整いました。
基底(Base)部
漢詩「正気歌」の分析範囲においては、「太史之簡」「董狐之筆」東アジア中で儒教的伝統の枠組みを超えて共有されてきた「六経=詩(詩経)、書(書経)、礼(礼記)、楽(楽経)、易(易経)、春秋」などの中国古典が抽出されます。ただしもちろん「由緒正しい」からといって、その全てが次に述べる現行(Current)部に含まれるとは限りません。
現行(Current)部
漢詩「正気歌」の分析範囲においては(出師表)の諸葛孔明や四十七士の様に「後世の展開において新たなる付加価値を獲得して現在も相応に思い出され続けている人物」に該当。上掲の「革命の世紀のフランス人」の穏健共和派がある程度まで急進共和派と王党派の語彙の双方にな実定向でいた様に、とりあえず制約さえなければ(「$${\tilde{∞}}$$の世界」をも含む)膨大かつ漠然とした汽水域(淡水と海水の境界域)を構成すると想定されます。おそらく機械学習アルゴリズムによる「浚渫」に最も向いた領域?
外測(Outer)部
漢詩「正気歌」の分析範囲においては(到底、元来の日本の伝統に沿ったものとはいえない)水戸藩独特の尊皇攘夷・廃仏毀釈イデオロギーに立脚する藤田東湖「和文天祥正氣歌」の引用の大半が該当。なまじ大日本帝国末期にこれに立脚する忠義道が強要され、敗戦によって否定されたのも「急速に忘れ去られた」要因の一つになったかもしれません。
何が具体的に「ポルノグラフィ」「反道徳的」「反倫理的」と認定されたか尋ねたつもりだったのだが、そこは巧みにはぐらかした優等生的回答。そりゃ実質的内容に「着物姿で刃物で斬り合うのは野蛮人。スーツ姿で銃を撃ち合うのが文明人」とか「コンドームで産児制限したり梅毒防止するのは野蛮人」といった滅茶苦茶な側面があった事は、そう簡単には認めらたもんじゃない。
例えば「民主主義と平和の推進」といえば、映画界においてチャンバラが禁じられ(何故か太腿のチラ見せが売りの女剣士芝居は許された)、二丁拳銃ヒーローや濡れ手拭いで戦う「刺青判官」遠山の金さんや、(パリッとしたスーツ姿で旧家の因習に立ち向かう)アメリカ帰りの民主主義の使者」金田一耕助が活躍した時代であった。
中川「全員同じ顔じゃないですか!!」
まぁ「戦前からチャンバラに頼らない人間ドラマを追求してきた」片岡千恵蔵ならではの全盛期なので多少はね?(到底多少どころじゃない)
ちなみに片岡千恵蔵、海外ではカルト人気を誇る異色時代劇「十三人の刺客(東映1963年)」の頭領役として知られている。
この「十三人の刺客」を英国で「エルサレム帰りのテンプル騎士団修道士の集めた人間のクズがジョン王率いる大軍に挑む物語」としてリメイクしたのが「アイアンクラッド(Ironclad,2011年)」だったりする。
この優等生的回答についても色々言いたい事があるけど、そのうち別投稿にて。なお黒澤明監督は「静かなる決闘(1949年)」の脚本を滅茶苦茶にされて、かなり激怒した模様…
こういう話とは別に「日本人の心が伝統的忠義道から離れていく過程」については、黒澤監督映画「虎の尾を踏む男達(1945年)」「隠し砦の三悪人(1958年)」辺りを鑑賞すると色々と考えさせられるものがあります。
どちらの作品も筋書きは「伝説の雲上人(Legend)が無名の庶民と邂逅して一緒に冒険するも(自分達を待つ悲劇的最後に巻き込むのが忍びなくて)最後は別れる」という内容なのですが…
伝説の雲上人(Legend)…「虎の尾を踏む男達」では逃走中の源義経一行、「隠し砦の三悪人」では逃走中の秋月家一行。
無名の庶民…「虎の尾を踏む男達」では人気喜劇役者エノケン演じる強力、「隠し砦の三悪人」では立身出世を夢見て合戦に足軽として参戦した百姓の太平と又七。
何かこう、両者の間の「絶対に越えられない壁」感が物凄いのですね。それではこの系統の作品が途絶えたかというと真実は奇なり…
そういえば「フォース」の最初期の翻訳は「理力」でしたね。
でもこれって本当に「現行(Current)部に復帰した」という解釈で正しいんでしょうか? そういう疑問が湧いてきたところで以下続報…
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