最近のアメリカ人男性はアイデンティティ危機を抱えている様です。
この状況に飛び蹴りでトドメを刺すのが日本発のこのmeme。
日本人の知らないところで大活躍中の高橋留美子「犬夜叉(1996年~2008年)」meme。かごめ「彼ったら粗暴で、自分勝手で、まるで自己抑制が効かないの」女友達の心の声「アメリカ人?」 なお、各女性の判断を最優先で尊重する第三世代フェミニズム、開拓地時代からアメリカに強く残存する家父長制的伝統について「あえて容認した上で、その枠組みの中で女性の立場を高める道を模索する立場」も「あえて黙殺から出発して現実への落とし所を探す立場」もどちらも戦略として認める中立的立場ゆえに、こういう形で世論が二分される状況下では、大変不利な立場に置かれていたりします。より具体的には、2010年代前半のTumbrではなんとか一体性を保てていたものの、トランプ大統領が誕生した2016年以降雲行きが怪しくなり、「2019年の大粛清」によってTumbrが大崩れを起こし、Twitter(現X)が疎開先となって以降は完全に分断が表面化してきました。「我々が個性や自由意志と信じているものは概ね、社会の同調圧力に型抜きされた量産品に過ぎない(カール・マルクス)」といいますが、特にマッチョ同調圧が強まり「銃とハーレーとマルボロと男の娘がこよなく好き」みたいな(2010年代tumbrには確実に存在した)グラデーション層の存続が困難になったのが大きなダメージとなった形です。
後発性優位説? 翻って我が国日本。仕入れたのが随分と昔の話なので記憶の詳細が曖昧となってますが、明治維新を迎えたある晩餐会の席上におけるエピソード。欧米列強の重鎮が家族を連れて参加する重要な宴席だった訳ですが、そこでまぁよくある様に話が「女性の審美基準」みたいな下世話な方向に向かった時、とある明治維新の元勲(記憶が正しければ伊藤博文か井上馨あたり)が「女なんてヤレるかヤレないかですよ」と、とんでもない失言をかましてしまい「やはり日本はまだまだ野蛮人の国である」と国際的に風評が流れてしまったというのです。
宮武外骨「滑稽新聞」「女ずき者の最後(明治42年/1909年)」 まぁ現代人の感覚からすれば目も当てられない状態だったのは確かなのです。最近新札発行がらみで話題となってる渋沢栄一も…
この時から大日本帝国にとってある意味「欧米流エロティズムの導入」は、富国強兵と並ぶ重要課題に昇格したのです。そして、それから数十年を経た昭和5年(1931年)段階の研究成果がこれ…
「いき」という日本語は民族的色彩の著しい語の一つである。いま仮に同意義の語を欧洲語のうちにもとめてみよう。まず英、独の両語でこれに類似するものは、ほとんどことごとくフランス語の借用に基づいている。しからばフランス語のうちに「いき」に該当するものを見出すことができるであろうか。第一に問題となるのは chic という言葉である。この語は英語にもドイツ語にもそのまま借用されていて、日本ではしばしば「いき」と訳される。元来、この語の語源に関しては二説ある。一説によれば chicane の略で裁判沙汰を縺もつれさせる「繊巧(せんこう)な詭計(きけい)」を心得ているというような意味がもとになっている。他説によれば chic の原形は schick である。すなわち schicken から来たドイツ語である。そうして geschickt と同じに、諸事についての「巧妙」の意味をもっていた。その語をフランスが輸入して、次第に趣味についてのelegantに近接する意味に変えて用いるようになった。今度はこの新しい意味をもったchicとして、すなわちフランス語としてドイツにも逆輸入された。しからば、この語の現在有する意味はいかなる内容をもっているかというに、決して「いき」ほど限定されたものではない。外延のなお一層広いものである。すなわち「いき」をも「上品」をも均ひとしく要素として包摂し、「野暮」「下品」などに対して、趣味の「繊巧」または「卓越」を表明している。次にcoquetという語がある。この語はcoqから来ていて、一羽の雄鶏おんどりが数羽の牝鶏めんどりに取巻かれていることを条件として展開する光景に関するものである。すなわち「媚態的(びたいてき)」を意味する。この語も英語にもドイツ語にもそのまま用いられている。ドイツでは十八世紀に coquetterie に対して Fngereiという語が案出されたが一般に通用するに至らなかった。この特に「フランス的」といわれる語は確かに「いき」の徴表の一つを形成している。しかしなお、他の徴表の加わらざる限り「いき」の意味を生じては来ない。しかのみならず徴表結合の如何いかんによっては「下品」ともなり「甘く」もなる。カルメンがハバネラを歌いつつドン・ジョゼに媚こびる態度は coquetterieには相違ないが決して「いき」ではない。なおまたフランスには raffineという語がある。 re-affiner すなわち「一層精細にする」という語から来ていて、「洗練」を意味する。英語にもドイツ語にも移って行っている。そうしてこの語は「いき」の徴表の一をなすものである。しかしながら「いき」の意味を成すにはなお重要な徴表を欠いている。かつまた或る徴表と結合する場合には「いき」と或る意味で対立している「渋味」となることもできる。要するに「いき」は欧洲語としては単に類似の語を有するのみで全然同価値の語は見出し得ない。したがって「いき」とは東洋文化の、否、大和やまと民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つであると考えて差支さしつかえない。
上掲九鬼周造「「いき」の構造(1905年)」 ここで日本固有の情緒と位置付けられている「いき」概念に関連して第三世代フェミニズムの姉様達は以下の様な表現を用いていた。「胸を強調したり、太腿を大胆に露出したりするのは全て自らを鼓舞(cheer up)する為の化粧。顔にちゃんと凛とした表情が浮かべられてるかどうかが最終的な判断基準」。原文の細部は忘れたが「凛とした」の表現にはstrongやrobust辺りが使われていた筈。確かに日本分野に根付く「いき」概念と完全には重ならないが、かといって完全に互換性がない訳でもない辺りに多文化圏展開の面白みがあるという次第。
彼女達は、そうやって我々男子アカウントに「正しい女性に対する第一印象の形成の仕方」を伝授する一方、小娘どもには「如何なる状況下でも落ち着いて最善の手が打てる動じない心を持て」と教授しようと試みた。ただし敵もさるもの、引っ掻くもの。すかさず「わたし、チェーンソーを握ると心が落ち着いて、手の震えが止まるんです。チェーンソーも化粧品の一種ですか?」なんぞと混ぜっ返したりしてきたものである。
ふと有名なmeme「痴漢に狙われやすい立ち方・狙われにくい立ち方」を思い出した。とにかくフェミニストの辞書に「男性に誘惑しようとしてると誤解させる服装は避ける事」という文字はない。 そう、日本人はわずか半世紀にして当時流行していた現象学の分布意味論的側面を駆使し、明治維新当時の大日本帝国の野蛮を笑った「洗練された宮廷恋愛系ディスクール」が近世絶対王政下のフランス上流階級由来であり、それ以外の国もこの方面の洗練は「後進国としてこれを必死で輸入し、自国文化への適合を試みる」段階から始まった事を突き止めたという次第。
「「いき」の構造」が最終的に到達する直交座標系 実際、有名な「ピョートル大帝の大使節団(1697年~1698年)」を筆頭に、欧州文化圏においても「後進国による先進国のキャッチアップ事案」ならいくらだって転がっているのです。
そのうちでも、特に今回の投稿と深く関係してくるのが英国における「グランドツアー(Grand Tour)」の伝統。
グランドツアー(英:Grand Tour、伊:Gran Turismo)とは、17世紀初頭から19世紀初頭までイギリスの裕福な貴族の子弟が、その学業の終了時に行った大規模な国外旅行。 17世紀になりそれまで続いたヨーロッパの戦乱が落ち着きを見せ、宿や駅馬車、交通網など旅行に必要な環境が整ってきた。それ以前の旅行は商用など実用的な目的があるものがほとんどだったが、グランドツアーの流行は私的な旅行が始まった時期と重なっている。 文化先進国のフランスとイタリアが主な目的地で、主要都市の文化や上流社会を体験する機会となっていた。修学旅行と比較されることがあるが、グランドツアーは学校主催の教育旅行ではなく個人主催であったこと、費用も賄うことができる一部の者のみが参加したこと、グランドツアーは期間が数か月から数年と長いことなど違いがある。 家庭教師が同行を務めるのが一般的で、トマス・ホッブズやアダム・スミスも同行した事がある。旅行の間、若者は近隣の諸国の政治、文化、芸術、そして考古学などを同行の家庭教師から学んだ。彼らは見物したり、勉強したり、買い物に精を出したりする。中には女性についての修行に励むものもあった。グランドツアーは、若いイギリスの青年たちにとっては、様々な実情や状況に合った生きた知識を手に入れるための実用的な好機でもあったのである。哲学者ジョン・ロックはSome Thoughts Concernig Education(1693)において、青年は学業の締めくくりとなるグランドツア-を通して、外国語や上品な行儀作法とともに進取の精神と決断力を学ぶべきと説いている。 家庭教師の監視のもと、あるいはお付きの者の世話を受けながら、若者たちは旅行に出かけた。旅行の最初のスタートは英仏海峡を渡って、フランスに入ることである。多くの若者にとっては、度重なる両国間の激動の時代以来、これ自体がすでにひとつの試練でもあった。 フランスは、その礼儀作法や社交生活の洗練さによって、イギリスの貴族階級の高貴さとはまた違った上品なマナーを身につけ、態度振る舞いに磨きをかけるということから人気があった。 イタリアは、古代ローマやルネサンスの遺産が多く、最も人気のある場所のひとつであった(同時に、芸術を志す若者が、ヨーロッパ各国から古代の彫刻などを学ぶために集まった)。ルネサンスに影響を受けた若者によって、やがてイギリスにも新古典主義の建物が多く造られるようになった。
上掲Wikipedia「グランドツアー」 18世紀英国の文化運動「ゴシック・リバイバル」もこの辺りに由来。別荘ストロベリー・ヒル・ハウスを自分好みの中世ゴシック風に改築し「オトラント城奇譚(The Castle of Otranto,1764年)」を発表したホーレス・ウォルポール(Horace Walpole, 4th Earl of Orford, 1717年~1797年)や、未隠遁地にシトー修道院風の自宅を建て「ヴァセック(Vathek,1786年)」を発表したばかりか美食も極めたウィリアム・トマス・ベックフォード(William Thomas Beckford, 1760年~1844年)らあたりが有名だが、その行動力の源泉はどちらも大陸遊学時代に受けたカルチャー・ショックにあったのである。
フランス革命が勃発し、ナポレオン戦争の時代に突入するとフランス留学が不可能となり、イタリアやギリシャなど地中海沿岸地域が若い貴族子弟の遊行先に選ばれる事となった。異国情緒あふれる現地紹介で話題となったのがロマン主義運動の裾野を広げる上で役立ったバイロン卿(Lord Byron,George Gordon Byron, 6th Baron Byron, 1788年~1824年)の「チャイルド・ハロルドの遍歴(Childe Harold's Pilgrimage,1812年~1818年)」や、アンデルセン(Hans Christian Andersen, 1805年~1875年)」の「即興詩人(Improvisatoren,1835年)」など。
実は吸血鬼概念の大源流は概ね古代ギリシャ時代まで遡る東欧文化圏で、これが西欧に伝わったのはオスマン帝国が第2次ウィーン包囲(1863年)に失敗して逆に追撃を受け領土を大量に失って以降。そして新たに獲得した領土を調査した神聖ローマ帝国官僚の報告書に現地民間信仰における吸血鬼についての記載があった事が発端となった訳だが、これに濃厚なエロティズムを吹き込んだのはバイロン卿(George Gordon Byron, 1788年~1824年)の恋人としてギリシャ旅行に同行した同性愛者の医師ポリドリのゴシック小説「吸血鬼(The Vampyre, 1819年)」であった。それもその筈、この小説は英国社交界において「娘だけでなく息子も隠せ」と恐れられた「両刀使いの食い散らかし遊び人」バイロン卿を主人公を襲う吸血鬼にこっそり重ね合わせた「鍵小説」として大ヒットした作品だったのである。
上掲「亜人ちゃんは語りたい」①意外と真面目な「マジョリティとマイノリティの関係論」 古往今来詩家の恋愛に失する者、挙げて数ふべからず、ついに女性をして嫁して詩家の妻となるを戒しむるに至らしめたり。詩家あに無情の動物ならむ、否、その濃情なる事、常人に幾倍する事著し、しかるに綢繆(ちうびう)終りを全うする者すくなきは何故ぞ。ギヨオテ(ゲーテ)の鬼才をもって、後人をして彼の頭は黄金、彼の心はこれ鉛なりといはしめしも、その恋愛に対する節操全からざりければなり。バイロンの嵩峻をもっても、かの貞淑寡言の良妻をして狂人と疑はしめ、去つて以太利(イタリー)に飄泊するに及んでは、妻ある者、娘ある者をしてバイロンの出入を厳にせしめしが如き。あるいはシヱレイ(シェリー)の合歓いまだ久しからざるに妻は去つて自ら殺し、郎もまた天命を全うせざりしが如き。 女性を冷罵する事、東西厭世家の常なり。釈氏(釈迦)も力を籠めて女人を罵り、沙翁(シェークスピア)も往々女人に関してあきたらぬ語気を吐けり。…けだし女性は感情的の動物なり、詩家もまた男性中の女性といふべき程に感情に富める者なり。深夜火器を弄して閨中の人を驚かせしバイロン、必らずしも狂人たりしにあらざるべし、けだし女性はある意味においてはなはだ偏狭頑迷なる者なり、しかして詩家もまた、ある点より観ればこれに似たる所あるを免れず。けだし女性は優美繊細なる者なり、しかして詩家もまたその思想に於ては優美繊細を常とする者なり、豪逸雄壮なる詩句を迸出する時においても、詩家は優美を旨とするものなるを以て、自からづから女性に似たるところあるを免れず。その他生理学上においてつまびらかに詩家の性情を検察すれば、神経質なるところ、執着なるところ等、類同の個条けだし数ふるにいとまあらざるべし。これらの類同なる諸点あるが故に、同性相忌むところよりして、詩家は遂に綢繆(ちうびう)を全うする事あたはざる者なるか。それあるいは然らむ、しかれども余は別に説あり、請ふ識者に問はむ。
北村透谷「厭世家と女性(明治25年/1892年))」 え? 「同族嫌悪」? ここには早くも坂口安吾がフランス文学者として影響を受けた「男性が本懐を遂げるのを女性の優しさが妨げる」(女性恐怖症と表裏一体の関係にある)伝統的ミソジニー的世界観からの脱却が見られます。
まさしく学生運動が終焉に向かう1970年代前半のヒット曲かぐや姫「神田川(1973年)」の一説「若かったあの頃、何も怖くなかった。ただあなたの優しさが怖かった」情景からの脱却の始まり…
それまで学生運動に邁進してきた竹宮恵子が「運動家の男達が望んでいるのは結局、家父長制の打倒でなく親の代からの支配権の継承に過ぎない」と看過して花の24年組を組織したのは、まさにこうした時代の出来事だったという次第。
「今、世間が安保でうるさいじゃない?世の中を変えて見せるとか、変えることができるはずとかってゲバ棒持って叫んでいるけど、どう思う?私はあんなことしたって、絶対に何もできるはずがないって思うんだよ」 私(竹宮惠子)は、地元徳島での大学時代のことを思い出していた。そういえば、彼らもそんな感じだったな、口で言っていることに、実際の暮らしや行動が伴っていない。 「私はね、今の学生運動なんか信用していない。高校生のときから学生も大人も信用していなかったよ。あの人たち、難しいこと言っているけど、自分の言葉の意味がまずわかっていないもの。そんなことで何かを変えるなんてできないし、逆にそんなことで変わってしまうような国じゃないよ、日本は」 「それよりもさ、みんなそれぞれが、まず自分たちにできることをやるほうが先だよ。私たちなら、まず目の前のマンガ。少女マンガでしょう。少女マンガを変えようよ。そして、少女マンガで革命を起こそうよ。」 まったく同感だった。それこそが地に足が着いている。誰が、何のためにやるのかがはっきりしている。
上掲「学生運動と少女マンガーーー池田理代子と竹宮惠子」 このシリーズの最初の投稿において、第三世代フェミニズム(少なくともその一派閥)に日本のアニメ漫画GAME(特に少女漫画)のディスクールを選好する傾向がある事を指摘しましたが、それもこれもまさに出発点がそういう感じであり、その精神自体が今日なお継承され続けているからに他なりません。それこそ、はまじあき「ぼっち・ざ・ろっく!(BOCCHI THE ROCK!,1918年~)」の第1期アニメOPの一説「革命を成し遂げてみたいな?」にまで継承され続けてる様な伝統…
既に第三世代フェミニストは「メトロイド(1986年)」や「美少女戦士セーラームーン(1992年~1997年)」の登場人物を運動のシンボに選んできたし、Tumbr全盛期に「親の監視を手助けするFacebook」からTumbrに逃げ込んだ欧米の少女達は(ジャスティン・ビーバー同様2007年に劇的デビューを果たした)Vocaloid初音ミクの熱狂的ファンでもあった。彼女達の取り込みを狙うネット上の第三世代フェミニスト(匿名だったが、その振る舞いから見て大学院生、職業学生、スクールカウンセラーやその卵辺りが中心)が日本のアニメ漫画Gameカルチャーに親和的となったのは決して偶然ではなく、その様な形で基礎教養が重なっていたからでもあった。
上掲「エロティズムを構成する三大基底」 欧米フェミニズムはこうした内省性を備える事なく暴走。むやみやたらと無用な反発ばかり引き起こす末期症状に至ったのに対し、地に足をつけた活動を積み重ねてきた「日本の革命精神」はむしろ重要な輸出資源に育ったという…こういうの何ていうんでしたっけ? 「ガーシェンクロンの後発性優位説」で合ってる?
こうしてパッケージングされた「近代的工業国家への脱皮ノウハウ」を早速活用して「(経済学者アレクサンダー・ガーシェンクロンいうところの)後発性優位の法則」モデルケースに採用された「優等生国家」が二つ。 ①1848年革命時点での農奴解放により産業革命導入条件を満たしたドイツ帝国(1871年~1918年)。皮肉に普仏戦争(1870年-1871年)勝利で勝ち取った賠償金を建国と社会インフラ整備の原資に充てる。 ②上古の律令制導入期を思い出させるラディカルさで(つまり経験者として)版籍奉還(1969年)、廃藩置県と藩債処分(1871年)、秩禄処分(1876年)を矢継ぎ早に成功させ、無血で江戸幕藩体制から都道府県制への推移を成功させた大日本帝国(1868年~1847年)。
上掲「「パトロクロスでさえ死んだのだ」とアキレウスは言った」」 「おっぱいや裸を照覧する文化自体がなかった後進国日本」が、わずか1世紀たらずでここまでキャッチアップするは…世にいう「日本人とドイツ人は良い意味でも、悪い意味でも怖いくらい真面目」というアレですね。そんな途方もない景色が浮かび上がってきたところで以下続報…
【追伸】「人間界に間違って生まれ落ちた超自然的存在」? 今「小泉八雲東大講義録」を読んでるのですが、そのうち妖精譚を紹介する講義で面白い記述に出会いました。要約すると「ここでその作品に妖精が一切登場しないシェリーについて言及する事を奇異に感じる方もいらっしゃる事でしょう。でも問題ありません。彼自身が人間界に間違って生まれ落ちた妖精だった訳ですから」。
思い出したのが、ハードバップ呼ばれる熱情的な即興演奏が主流だったモダンジャズの世界に、あえて「クラッシック教養に立脚する白人」として乗り込んでモードジャズなる新機軸を打ち立てたビル・エヴァンス(Bill Evans,1929年~1980年)。華やかな経歴の裏腹で麻薬中毒の人格破綻者として知られ「その生涯全体が緩慢な自殺であった」とも評された「人間界に間違って生まれ落ちた天使」…こうした「優美繊細」極まりない人物もまた惑う事なくアメリカ人男性の一類型と見做さざるを得ない辺り、興味深いですね。
まぁ外観は男性でも人間じゃないので、邂逅した女性を次々と不幸のどん底に叩き落としていった訳ですが、シェリーの場合はさらなる「怪物」と邂逅。最終的には未来に向けての名声獲得合戦において競り負ける悲運を迎えます。そう、現代人の感覚ではあくまで「キューリーといったらキューリー夫人、シェリーといったらシェリー夫人」という次第…
パーシー・シェリーとメアリ・シェリーの夫婦仲は複雑でした。二人は深い愛情を持っていましたが、関係は必ずしも平坦ではありませんでした。 パーシー・シェリーは1814年にメアリ・ゴドウィン(後のメアリ・シェリー)と恋愛関係になり、彼の最初の妻ハリエットと別れました。パーシーとメアリは結婚後もお互いに強い愛情を抱き続けましたが、パーシーの浮気や経済的困難、そして子供の死などが夫婦関係に影響を与えました。 メアリは「フランケンシュタイン」の作者としても知られており、その創作活動にはパーシーの影響が見られます。二人はお互いの才能を尊重し合っていたことも事実です。 しかし、全体として見ると、夫婦仲は複雑で、多くの困難に直面しながらも愛情と尊敬を持ち続けた関係だったと言えます。
ChatGPTに質問「パーシー・シェリーとメアリーシェリーの夫婦仲は良好だったのですか?」 この辺りの機微こそ、私がこのシリーズで追求しようとしているエロティズムの一つの極限となる訳ですが、日本の漫画アニメGame文化はもうこの領域に重要な足跡を残していますね。そう福田晋一「その着せ替え人形は恋をする(2018年~)」13巻に登場する「天使ハニエル」…
「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 「その着せ替え人形は恋をする」13巻 そんな感じで、改めて以下続報…