
愛された孫 2-5(私小説)
その日はいつも通り二階のリビングで家族四人で夕食を取った後、私だけ父の部屋に呼び出された。
父の部屋は一階の和室だった。本棚、デスク、オーディオコンポといった父の私物以外に、仏壇や着物が入った桐箪笥が置かれ、日本人形や羽子板が飾られていた。部屋の中央には掘りごたつがあり、床の間には古新聞が積んであった。和室と書斎が融合した部屋だった。
父はデスクチェアに座り、私は畳に腰を下ろした。わざわざ呼び出されたので、念のため正座をする。畳はひんやりとしていてスネから湿り気を感じた。父が私を見下ろしている。
「おばあちゃんの養子にならないか」
父の声は確かに私の耳に届いた。養子という言葉は知っている。しかし、それが自分にとって何を意味するのか分からなかった。
私の口から様子をうかがうような声がぽそっと出てきた。
「養子?」
私の応答を確認すると、父は話を続けた。
「お母さんは一人娘だから千田の家はこのままだと途絶えてしまうだろ。だからお前が形式上はおばあちゃんの養子になって、千田の家を継いだらどうかという話がある」
私は黙った。話の概要を理解した代わりに今度は別の疑問がどんどん浮かんできた。
この家族で私だけ姓字が変わるのか。なぜ姉ではなく私なのか。そもそも千田の家はそんな大層な家柄だったのか。利一郎には確か何人か弟がいたはずだから、千田の名前は残るのではないか。
浮かんだ疑問はどれも上手く言葉には出せなくて、頭の中で泡のように消えていく。
スネに畳の目が食い込むのを感じて、とりあえず真っ先に浮かんだ疑問である姓字について尋ねてみた。父はその通りだと頷いた。
「姓が変わっても親子の関係は変わらないし、むしろ二つの権利を持つことになるよ」
父はフォローのつもりにメリットも付け加えていたが、中学生の私には権利という不明確なものは響かなかった。それよりも四人家族で一人だけ姓が違うなんて仲間外れの烙印のようだ。
「ゆっくり考えていいし、今すぐどうこうという話ではないよ。ただお前が前向きに考えるなら、進路も色々な道がある」
「色々な道?」
今夜の父はどうも歯切れが悪い。布で覆われた物を手渡され、中身を当てろと言われているようだ。
私に聞き返されて、やっと父は具体例を出す。
「たとえば群馬におばあちゃん達と住んで、太田の高校に通うとか」
この例え話が決定打だった。私の脳天を突いた。その衝撃を合図に感情が沸きはじめた。あの土臭い群馬で高校生活を過ごすなんて絶対に嫌だ。それに、この話を私にするという事は、父も母も私と暮らすことに何の未練もないと言うことか。
話をさらに聞くと、このお役目が私に来たのは、やはり次女だからだった。結子ちゃんは長女だから、と花江も利一郎も当然のように遠慮したらしい。何だそれは。二番目に生まれた子供は物のように取引されるのか。
悔しさの配分が濃い涙が目の底から涌き出てくる。泣くもんかと膝に爪を経てた。
「高校の後はまたこっちに戻ってきてもいいんだ」
今夜父の言うことは、全て嘘っぱちに聞こえた。二度と東京に戻って来られず、群馬の土埃の中で生きていくことになる。
この時はまだ法律的に成人は二十歳だったし、高校生になるという目の前の目標が進路そのものだった。三年後には自分で住む場所を決める権利と能力を持つことなど想像出来ない。
「嫌です。群馬には行きません」
私は涙声にならぬよう、ぐぐぐと喉を締めながら答えた。
「そうか。分かった」
膝を見つめる私の頭に、父の声が降ってきた。声からは失望も安堵も感じ取れない。かと言って顔を上げて、表情を確認する気にもなれなかった。
「では」
私はそのまま頭を下げ、部屋から出ていった。
子供の頃は泣くと、ドアを勢いよく閉めたり、洗面所で顔を洗う音を響かせたり、階段を駆け上がったりして抗議していた。しかしこの日は静かに部屋に戻り、涙は袖口で拭き部屋で鼻をかんだだけだった。
姉はもう床についていた。絵本に出てくるクマのように、すやすやと呑気に寝ている。運動も勉強も私の方が出来て、私の方が痩せていて目も大きいのに。私の方が社交的で友達も多いのに。
この時の私は寂しさと羨望に気づかず、怒りに似た妬みを抱えて姉の寝顔を睨んだ。姉は何もできないままでも側に置いてもらえる。
私はデスクの上の分厚い進路情報紙を手に取った。全国の高校の偏差値が載っている。ふせんが貼っていない群馬のページを開き、公立の欄から話に出てきた太田の高校を見つけた。自分の志望校より偏差値が二つ高い。それも腹が立った。利一郎と花江、どっちが主犯かは知らないが人の人生で夢を見ないで欲しい。私はボールペンを手に取り、芯を出さないまま太田の偏差値をぐりぐりと潰した。