相川弥生

書きためた私小説やエッセイを公開しています。 内向的/30代/会社員(育児休業中)/I…

相川弥生

書きためた私小説やエッセイを公開しています。 内向的/30代/会社員(育児休業中)/ISFJ(擁護者) くどくど書きがち。上手に主旨を伝えられるようになりたい。

マガジン

  • 愛された孫(私小説)

    母方の祖母との思い出。愛されていたけれど、望むような愛され方ではなかった話。

  • ゆるく、ぜんぶ好き(エッセイ)

    趣味、推し活についてのエッセイです。

  • 投稿企画(エッセイ)

    各社の投稿企画のために書いたエッセイ。

最近の記事

愛された孫 2-9(私小説)

 花江は沈黙が苦手だったのかもしれない。食卓がテレビの音だけになると、最近あった出来事や見ず知らずのご近所さんの噂話をした。ご近所さんのことは全く知らないので正直聞いても分からないのだが、私も沈黙が嫌いな高校生になっていたので頷いて相づちを入れた。 「りっつぁんは可哀想だった。」  最近の話が終わると、よく出てくるのは利一郎の人生についてだった。  花江が利一郎を憐れむのは、利一郎の生い立ちからだった。利一郎の実母は彼が小さい頃に亡くなり後妻が来た。後妻の間に兄弟が三、四人生

    • 愛された孫 2-8(私小説)

       高校生になってもお盆と正月は花江の元に家族四人で向かった。千葉の家ではなく、利一郎が立てた群馬の家だ。  花江は基本的には利一郎が遺した群馬の家で暮らしつつ、千葉の家の管理も一人でしていた。病院や母に会いに東京に来たついでに千葉にも立ち寄った。東京に南下した後に東にクッと折れて千葉に向かうのだ。  空気を入れ換え、簡単な掃除をし、草刈りを手配したり、花の手入れもしていたようだ。月一回は千葉の家に行っていた気がする。  夏の帰省の目的は顔出しと墓参りだ。例年通り、日中に群馬

      • 愛された孫 2-7(私小説)

         利一郎が亡くなった年、私は杉並区にある都立高校に進学した。本当の第一志望は中野区にある都立高校だったが模試の判定が合格ラインのギリギリだった。落ちて私立校に行くのは嫌だったのでランクをやや下げた。私立校にいって学費の負担をかけたら両親に借りを作ることになる。当時の私には何がきっかけで群馬送りになるのか分からなかった。学費の心配が少ない都立高校に合格できて安心した。  制服が無い高校だったので、入学式に着る服を用意することになった。中学の制服は襟無しブレザーに丸襟ブラウスな

        • ゆるく、ぜんぶ好き「ラジオ・ポッドキャスト」(エッセイ)

           母子手帳をもらった時だっただろうか。一緒に「赤ちゃんのための電子メディアとのつきあいかた」というチラシをもらった。スマホ、DVD、テレビなどの電子メディアは「赤ちゃんにはデメリットばかり」と大きく書いてある。全面的に首肯するわけではないし夕飯作りなどで手が離せない時はEテレのお世話になっているが、何となく我が子に画面を見せる時間は制限している。  特に教育方針があるわけではなく、単に私が心配性だからだ。画面の光が我が子の視力を阻害しないか気が気じゃないのだ。  もともとテ

        愛された孫 2-9(私小説)

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        • 愛された孫(私小説)
          15本
        • ゆるく、ぜんぶ好き(エッセイ)
          7本
        • 投稿企画(エッセイ)
          2本

        記事

          愛された孫 2-6(私小説)

           両親は群馬に度々通っていたが、私達姉妹も利一郎のお見舞いに行った。覚えてるのは一回だけだ。  すべり止めの私立高に合格し高校生になれることは確定したので、そう報告した。病室のベッドに横たわる利一郎の鼻や身体にはチューブが繋がっていた。身体を起こすことはおろか、利一郎は目を開けるのも億劫そうで、あまり声も出なかった。私の報告が聞こえているかもよく分からなかった。  最後に聞いた言葉は「もう帰れ」だった。弱々しい身体のどこから絞り出したのかと思うほど、強くはっきりと怒鳴った。

          愛された孫 2-6(私小説)

          愛された孫 2-5(私小説)

           その日はいつも通り二階のリビングで家族四人で夕食を取った後、私だけ父の部屋に呼び出された。   父の部屋は一階の和室だった。本棚、デスク、オーディオコンポといった父の私物以外に、仏壇や着物が入った桐箪笥が置かれ、日本人形や羽子板が飾られていた。部屋の中央には掘りごたつがあり、床の間には古新聞が積んであった。和室と書斎が融合した部屋だった。  父はデスクチェアに座り、私は畳に腰を下ろした。わざわざ呼び出されたので、念のため正座をする。畳はひんやりとしていてスネから湿り気を感じ

          愛された孫 2-5(私小説)

          仕事の上では対等(エッセイ)

           時には昔の話をしようか。2011年、私は大学を卒業し或る広告代理店に入社した。百年に一度の就職氷河期を乗り越えたら、卒業式間近に東日本大震災が起こり、新卒研修中は節電として部屋の蛍光灯が半分消されていた。コンプライアンスやワークライフバランスという言葉はまだ世の中に浸透していない。そんな時代の話である。  新卒社員の価値の一つは他所の社風に染まっていないことだ。まだ無力だけれど気力に溢れた雛鳥はその会社における飛び方を素直に吸収していく。  私は営業部に配属された。直属の

          仕事の上では対等(エッセイ)

          愛された孫 2-4(私小説)

           中三の初夏、利一郎が入院した。急に横っ腹が痛みだして病院嫌いの利一郎でもすぐに向かったと聞いた。そんな時でも救急車を呼ばずに自分で車を運転したことに感心しつつも、事故にならなくて良かったと思う。  肝臓がんだった。家は骨組みまで出来ていた。  それから、父と母が群馬に行くことが多くなった。私は食事のためのお金を「ドラマみたいだな」と思いながら受け取った。今まで常に手料理だった反動で、姉と私はカップラーメンやピザといったジャンクな食生活を楽しんだ。  しかし一週間もすると飽

          愛された孫 2-4(私小説)

          ゆるく、ぜんぶ好き「掃除」(エッセイ)

           きれい好きな人は素敵だ。  まずイメージが良い。清らかな朝の空気の中、白と木目を基調としたキッチンに立つ女性。その手に握られているのはお気に入りのドリップポッド、優しく目を閉じながらコーヒーを丁寧に淹れている。程よく抜け感のある白いシャツを着ていて観葉植物のお手入れも欠かさない。そんなイメージが頭に浮かんだ。生成AIにそのまま入れたらすぐにイラストが出来そうなくらい具体的だ。  そんな人と一緒に住みたい。何もせずとも清潔な空間が手に入るなんて素敵だ。しかもきれい好きが高じて

          ゆるく、ぜんぶ好き「掃除」(エッセイ)

          ゆるく、ぜんぶ好き「ネイル」(エッセイ)

           自分の爪を初めて染めたのはいつだっただろうか。クレヨンだったか絵の具だったか。母に見つかって念入りに手を洗われた記憶がおぼろげにある。  二十代の頃、ジェルネイルブームが来た。お洒落な人は少なくとも二週間に一回はネイルサロンに通っていた。友達や同僚や取引先の女性の指先がアップデートされると、つい「ネイル可愛い(です)ね」と話を振ってしまう。  デザインテイストがその人自身を表現し、色味には彼女の気分やテンションが反映されている気がした。  私がジェルネイルに手を出せたのは

          ゆるく、ぜんぶ好き「ネイル」(エッセイ)

          夫に呪いの予言をする #未来のためにできること

           ネコ型ロボット、この言葉を聞いたら日本人の九割はドラえもんを想像するだろう。残りの一割が思い浮かべるのがベラボットだ。 「ベラボット?何それ?」  読者の九割九部九厘がそう思うだろうが、ベラボットを見たことがある人は多いはずだ。ベラボットはここ近年、ファミレスで爆発的に普及したネコ型配膳ロボットの商品名である。ガストやバーミヤンで、人間以上に沢山の食事を運ぶ働き者だ。  私は夫に「ネコ型ロボットみたい」と言われたのだが、ここで言うネコ型ロボットはドラえもんではなくベラボット

          夫に呪いの予言をする #未来のためにできること

          ゆるく、ぜんぶ好き「芥川龍之介」(エッセイ)

           時は二〇二四年八月十一日、百年ぶりの巴里五輪が今夜閉会する。世界一を賭けて繰り広げられた勝負の日々もやっと終わる。  連日報道される選手達の身体の躍動とそこから沸き起こる感動とは対照的に私は心身の不調に悩まされていた。  我が子が寝ないのだ。今年初頭に産まれた彼は未だ睡眠の仕方を覚えていない。よくて五時間寝てくれることもあれば、翌日には二時間、否一時間おきに泣き起きてしまう。  特に五時台は鬼門で、世界が明るくなっていることがどうやら恐ろしいらしい。今は聞き慣れた自鳴琴の

          ゆるく、ぜんぶ好き「芥川龍之介」(エッセイ)

          愛された孫 2-3(私小説)

           翌年の中二の夏も同じルートだった。群馬を北部から南部に縦断し、無事父母両方の墓参りを終えた。母方の墓参りの後は、利一郎の車で駅まで送ってもらう。その道中で鰻だか寿司を食べたところまで去年と一緒だった。私は年数回のご先祖様への務めを果たし、美味しいものも食べ、お小遣いまでもらったのであとは東京に帰るのみと思いながら車に揺られていた。達成感と満足感に包まれて安心していたのだ。  しかし、この年は寄り道をした。そこは寺から車で五分ほどの場所だった。  車が県道から横に折れて、砂

          愛された孫 2-3(私小説)

          愛された孫 2-2(私小説)

           暗雲が忍び寄ってきたのは中二の夏だった。母が一人娘なのに嫁に行ってしまったので、十四年の時を経てそのしわ寄せが私に来た。  小学生の時は、夏休みと言えば花江の千葉の家に行ったり、父の会社の保養荘がある伊豆高原に行っていた。海水浴、花火、高原散策、寿司、刺身、映画とバカンス色が強かった。しかし、中学生になると、保養荘が経費削減で廃止されたこともあり、夏休みの過ごし方が変わった。ルートに墓参りが加わったのだ。父も母もルーツは群馬なので、向かう方向ががらりと変わる。日本人の夏は

          愛された孫 2-2(私小説)

          愛された孫 2-1(私小説)

           もう中学生、の後に続く言葉は二つある。「なんだから」と「だしね」だ。  「なんだから」は何かを求められる時に使われる。勉強もしっかりしろ、子供みたいな事を言うな、進路についてしっかり考えろ、といった言葉がうしろに続く。  一方「だしね」は許しが与えられる時に使われる。私にとって大きかったのは友達だけで電車に乗って遊びに行く事とお泊まり会をする事だった。江古田が光が丘に、光が丘が池袋に、池袋が原宿に、原宿がディズニーランドに、と行動範囲はどんどん広がった。  お泊まり会は、い

          愛された孫 2-1(私小説)

          愛された孫 1-5(私小説)

           たしか小学六年生の冬休みだったと思う。花江と浅草駅で待ち合わせることになった。  ことの発端はお守りだ。利一郎の家は群馬にあり、この年の年末年始は群馬に皆が集まった。利一郎、花江と私達家族は初詣で吞龍様に赴いた。吞龍様は太田市にある群馬では有名な寺院だが、正式名称は知らない。周りの大人たちが吞龍様としか呼ばないからだ。  花江も生まれ育った場所は群馬だ。「吞龍様の側に住んでた誰々が服屋を始めた」だの「学徒動員で作らせられた部品は終戦間近は吞龍様の裏に捨てられていた」などと、

          愛された孫 1-5(私小説)