からだとあたまとこころと写真
休職に入ってからもの忘れが激しい。さっきまで考えていたことを2歩歩くだけで忘れる。からだが悪いとあたまがちゃんとしない。からだが悪いとこころもどしんと構えてくれない。それは睡眠がうまくできていないことの影響かもしれないし、ホルモンの問題かもしれない。単純に、からだを休めるために、あたまも休んでいるのかもしれない。なんにしても、家族やまわりの人にも「わたしはそういう状況にある」ということを覚えてもらって、歩幅をあわせてもらわないと立ち行かない。(比喩としての)すぐやる課で働き培ってきたことが遠い過去のようで、その癖はいまだ残滓としてあるものの、不便なものだ。
こんな体調で、上記の記事で挙げたアプリやSNSを使っていると、やっぱり時間が溶ける。本を読んだり文章を書く気力がない週は、前の週の倍はSNSを見てる。やだやだ、しんどいしんどい。X離れをした最大の理由はイーロンだが、おすすめポストの意地悪な人たちや、ターゲットが的外れの広告にも辟易している。それなのになんでまた今日もSNSをパトロールしてしまうのだろう?そんな原点に立ち返って、各SNSの好きな点・嫌いな点、使い続けたい点などをノートにリストアップしてみた。人生の時間は有限。わたしはなにがしたいのか。どんな情報をどの五感を使って得たいのか。過程は割愛するが、InstagramとThreadsをメインに続けたいという結論に落ち着いた。
1枚の写真から、表現された世界を覗き考える行為が好きだ。撮ることももちろん好き。美術館で写真展が開催されるごとに足を運ぶようにしているけれど、InstagramやThreadsにたくさん上がっているような日常的な写真にも好きな写真はある。私の人生にあった「好きな写真」について考える時間を、考える時間が存在していたことを、すっかり忘れている。大学で写真を学んでいたことを。
学生時代に好きだった写真は、ストレートで嘘のないもの。一瞬の真実をそのまま写し撮ったものだった。写真を学んでいた手前、できればよい写真を撮り、SNSに載せたい。でも、仕事を通じて過度に左脳を鍛えるあまり、好きな写真ってどんなだっけ、とか、こんな雰囲気のInstagramにしたい、とか、理想を描いてこなかったことに気付いた。むしろ「インスタ向け」の写真は撮れないと、考えることを放棄していた。だから自分のInstagramに載せる写真がまったく気に入らない。
今回、ノートを通して自分と向き合ったことで、何故Instagramに載せる写真があまり気に入っていないのか、やっと理解できた。写真の演出や装飾を目の敵にして、ストレート写真を好んできた癖が邪魔をしていると遂に気付いたのだ。(とくに物撮り📚)そのギャップを自分で埋められれば、またInstagramを通じて写真が楽しいと思えるはず。写真は楽しいと、心の底から思えたら。まずはミラーレス一眼を引っ張り出して、充電からスタートしよう。
休職してからというもの、いま一度、過去を振り返るタイミングに恵まれている。自分の核に再会しているようで、慈しみ深い時間になっていると同時に、仕事に邁進してきた自分についても振り返るタイミングなのかなとも感じる。でも、いまは昔の自分との再会を楽しむ時間として過ごしたいから、仕事の良さを考えることはもうすこし後回しにしたい。