蒙古襲来における日本軍総大将「少弐景資」流の新出系図発見の経緯について
はじめに
先日、少弐景資のお墓がある福岡県那珂川市において、蒙古襲来(元寇・文永の役)750周年事業「蒙古襲来と少弐景資」と題した九州大学名誉教授「服部英雄」先生の特別講演会が開催された。その折に服部先生にもご挨拶させていただく機会を得ることとなり、那珂川市郷土史研究会の藤野会長の様々な取り計らいに心よりお礼申し上げたい。
講演会は素晴らしいものであったが、その中で、服部先生は「少弐景資=盛氏(平井氏祖)説は違うと思う」とおっしゃられていた。私は少弐景資が盛氏に改名して平井として続いたという謎の解明に14年ほどかかったから、そう思う学者さんがいるのは当然だと考える。
一方で、少弐景資=盛氏(平井氏祖)説については、私が書いた学術論文の中で完全証明できたと考えており、史学における権威「日本史研究会」誌へ投稿し、現在進行形で査読の評価を受けているところである。論文は蒙古襲来絵詞、元寇、鎌倉幕府、九州中世史、藤原氏、少弐系図に関する総合研究に仕上がったが、発表前につき本稿で要点のみお知らせしたい。
今年2024年にご退職された、佐賀県立図書館の石橋道秀先生に10年程前に母方の本家に残る「平井系図 藤原姓」について相談したことが、今回の研究のきっかけとなった。史料・系図の収集に力を入れておられる佐賀県立図書館でさえも、先生がご在籍なさった期間に「一般の方から提供された確かな系図は一点も無かった」そうで、「平井系図」には大変驚かれていた。最終的に、佐賀県立図書館では寛大にも製本・配架頂いた。しかし、この系図にはまだ何かあると強い直感を持っていた私は、人知れず研究を続けた。
それから時は流れ「今度は少弐景資の系統だと分かった」と、石橋先生を再訪した。その際に「この発見を世にどう問えば(証明すれば)いいのか」尋ねたところ、「論文にすること」と「寄贈」を勧められた。実は石橋先生は服部先生のお弟子さんだったとこのとき伺った。
私は全くの素人だったが、1年かけてこの言葉の一つ「論文にすること」を実践した。追加して系図に景資の子として壱岐守護代平景隆が経高と名を変え記載されていると最近知ることとなった。
つまり、平井系図には蒙古襲来における中心人物、九州総統府太宰府長官「少弐資能」・日本軍総大将「少弐景資」・壱岐守護代「平景隆」三代の名が載っていると言うことになる。この貴種系統により、はじめて蒙古襲来は領土的にも役職的にも祖先「少弐一族」の戦だったと再認識できたのである。
藤野会長より平井系図発見の経緯や、本家の状況について「詳しく教えて欲しい」と希望があり、今回改めて執筆することとなった。私が行った研究とともにご紹介したい。
まず、少弐景資の系統である少弐氏庶流「平井系図」所有者の姓は平井ではなく中島である。中島家は私の母方の本家で、親戚一同が集まるような大きな家だった。また、家紋も少弐氏の家紋として有名な「寄掛け目結」ではなく「木瓜(織田木瓜としても知られる)」であった。
なぜ木瓜紋なのか、なぜ中島氏なのか、これが研究を始めたばかりの私が最初にぶち当たった疑問であった。それらの謎の解明については後述する。
今から60年ほど前、母方本家の中島保一(やすいち)氏が、従兄弟会を開催し、その席で中島家の系図(平井系図)を出して皆さんに見せたという。その席に同席出来なかった親類がコピーを受け取り、藤原氏最高の家格(北家)を持つ系図に魅力を感じ、調査を行ったそうで、後年その調査資料と系図のコピーを引き継いだ私がさらに研究を進めたのが今回の新出少弐系図発見の簡単な経緯である。親類の調査は以下に記載す。
中島家系図を尋ねる伝聞
※時代考察を行ったところ、乳母にあがったのは佐賀本藩ではなく蓮池藩の殿様だと考えられた。母乳をあげるというのは血を分かつのと同じで、一般的に高貴な人の役割とされたようである。
伝聞に関して
この他に「あまりに所有の土地(どの地方かは不明)が広大だったため、人力車が必要だった。」「大名行列も許可を得て通らざるを得なかった。」「高祖父は容姿端麗だった。」という伝聞もあった。また、事あるごとに「良い血筋」だと母に幼少期から聞かされてきた。
家紋の調査
平井経治は「織田木瓜」を家紋とする有馬氏の娘を娶っていた。当初、中島家の「織田木瓜」はここに由来するものと考えたが、そもそもの系図は弟の直秀の系統である。
平井系図には家の紋「寄掛け目結」と明確に書いてあるため、「織田木瓜」は元々の中島家に伝わっていたものかもしれない。親類の調査でも手がかりは見つからなかったようだ。
戸籍の調査
母の力を借り、戸籍謄本から調査を進めた。住所所在地から得た結論として中島家の旧本籍地は蓮池城の陣屋を望む城内にあった。2017年に発見され小城市立歴史資料館に新蔵された江戸中期の『蓮池城下古地図』に「百武」の区画があり、旧本籍地との位置が一致した。「平井氏」は一時期「百武氏」と名乗っていた。これらにより戸籍や地理的な確証は裏が取れたことになる。
しかし、遡った戸籍謄本の初代中島惣兵衛の子は養子であった。これはなぜなのか、色々と考察させられた。明治時代は家を継ぐため、養子縁組が頻繁に行なわれていた。この時代「幕末の農民の場合、全戸主の2割前後は養子で、武士ではこの割合はもっと高く、多産多死で成人する子供が少ない中、養子縁組により家制度を維持してきた。(中略)平民に氏の使用が許されるようになったのは、明治3(1870)年以降(1)」だそうである。つまり、平井氏が中島氏に養子に入ったか、中島氏が平井氏の家督を受け継いだのかどちらかと考えられる。いずれの場合も親族が養子に入ることが慣習で、高貴を自認するなら、なおさら「少弐氏」の血が入っていることが前提であるはずだ。
古文書の調査
佐賀県立図書館で「蓮池藩士族屋敷地誌」という古文書を閲覧させて頂いた。この中に、「平井杢兵衛 同中地鷹屋」という屋敷地に関する記録があった。付箋のような本当に小さなメモ書きであり、見つけたこと自体が奇跡だと思う。
蓮池見島地区の南部一帯の字名は中地名と言い「鷹屋」という地名がある(2)。この「佐賀市蓮池町見島」をグーグルマップで検索すると真教寺がある。この付近はまさに中島家の旧本籍地であった。
また、一緒に閲覧させていただいた分限帳には百武五左衛門(平井系図には平井経清 改百武姓とあり)六十六石とあった。
「平井杢兵衛(杢平)」という人物は「蓮池藩日誌」にも登場する。明治四年、二万四百三十二石だった蓮池藩は藩主の鍋島岩人氏の俸禄が四十五石だった頃、平井杢平は十石であった。同じページに中島惣吾十石という記述がある。戸籍謄本で言う中島家の祖中島惣兵衛と同じ「惣」を踏襲しているため、両者は同家である可能性が濃厚である。両者は序列的にも有力な武家だったと考えられる。
これらの調査で分かったことは、中島氏・百武氏・平井氏の居住地が、戸籍謄本(中島氏)・蓮池城下古地図(百武氏)・御公儀御系圖其外(平井氏)という全く別の三つの資料において一致があったことだ。つまり、導き出された答えとしては「中島氏は平井氏・百武氏の現在の後裔」この一点に集約されると思う。また、この説をサポートする例として、中島家は祖父の代に「平井系図」を自らの家の歴史だと自認していた。
平井氏の興りと滅亡
少弐家本宗は北条得宗専制の圧力により弱体の一途を辿ったが、外部要因による抗争に晒されながらも守護国保護に全力を尽くした。しかし大内氏の九州侵攻と戦国時代の荒々しい時代の流れに抗いきれず、十一代嘉頼の頃には滅亡の淵に追い詰められ対馬に亡命状態となった。宗氏の力を借り太宰府奪還の復活劇を繰り返したが、ついに衰退して肥前に追いやられてしまった。
この頃、肥前で少弐氏から独立した治世を行っていた平井氏は、現在の佐賀県白石町周辺を拠点としていた。『歴代鎮西要略』は「肥前国須古城主平井経治は、須古、白石、及び北郷の地数千町を領して勢いあり。」(現代語訳)と載せている。
平井直秀の時代、平井経治を城主とする須古城は、杵島城、男島城の三城構成の郭群群として、地形や支城の連携で難攻不落を誇った。これを龍造寺隆信は9年に渡って四度攻めた。ついに孤立無援であった状況に絶望した弟の平井直秀と縁者たちは、鍋島直茂の調略により、兄経治に対して謀反を起こし須古城を占拠してしまった。
兄経治は城を奪い返したが、最終的に須古城は落城、戦国時代に国衆として栄えた平井氏は、龍造寺氏の侵攻により滅亡した。
直秀も落命したが、その遺児は鍋島藩にとって須古城攻略作戦で協力した恩人の子にあたり、扶持が与えられ幕末まで仕えた。中島家蔵の蓮池「平井系図」はこの直秀のものである。また、経治の子は野村姓を名乗り、同様に扶持が与えられた。
国選択民俗文化財「大島の須古(すこ)踊」長崎県平戸市的山(あづち)大島の須古踊は天正2年(1574年)、現在の佐賀県白石町にあった須古妻木城が落城し大島に逃れた平井経治の系統の一族が郷里をしのんで踊り伝えたと考えられている。
また、肥前国藤津郡(現佐賀県太良町)の東南端に位置する竹崎島(現太良町大字大浦甲字竹崎)の観世音寺(正式には竹崎山補陀落院観世音寺)に平井氏に関係されるとする平井坊が残っている。
百武氏への派生
平井氏は百武姓を名乗っていた時期がある。百人の兵に勝ると百武姓を龍造寺氏から賜った初代百武賢兼は、龍造寺四天王の一人として名声を馳せたが沖田畷の戦いで戦死し養子であった龍造寺隆信の家老石井賢次の次男茂兼が百武氏を継いだ。一方で平井経房は鍋島直茂の養女を娶り、子の経清が母親の姓を名乗ったことで、百武氏の分家として続いた。
昭和天皇の侍従長を長く務めたことで有名な、海軍大将百武三郎氏と二人の弟、海軍大将百武源吾氏、陸軍中将百武晴吉氏ら三名のいわゆる百武三兄弟は分家の出身という。彼らが少弐景資の後裔であるかどうかは、今も残されている大きな謎である。
中島氏の由来
九州治乱記(北肥戦誌:正徳年間 1711~1715年頃成立)という書物の「直秀経治の為に討たる須古落城の事」に「龍造寺の総勢早口々を攻め破って、高城(須古城のこと)の本城へ押詰む。時に城中より、新宗吟入道切って出て、中島形部少輔信連と太刀を合せ、や`暫し切合ひしが、竟に形部少輔に打たれけり。中島も十三ヶ所宗吟に切られて、半死半生と見えたり。されば此入道は、武勇普通に勝れ、又連歌を好みて艶めき者なり。日頃須古踊という遊あって、様々に花車なる文句を謡ひしも、此の入道の作ぞかし。(中略)十二月廿一日、佐嘉へ帰陣ありけり。此時、新宗吟を討って痛手を蒙りし中島形部少輔、横邉田まで帰陣しけるが、大町に於て遂に落命しけり。未だ生存の内、隆信、其の戦功を賞せられ、白石郷の内、日目ヶ里といふ所を加恩ありけり。(後略)」(現代語訳)という記述があり、須古踊りの由来とともに地域の重要な出来事として記録されている。
さて、平井系図の系統である平井直秀側の武将として、兄経治を討った中島形部少輔信連が現在の中島家と関係しているのか、私は明確な答えを持っていない。言えることは、地理的、歴史的な関係性からも、この子孫が平井氏と長く良好な関係を保ち、現在の中島家として続いた可能性があるということである。
有料記事で実際の平井系図の一部と、壱岐守護代「平景隆」、「少弐系図」の謎についてご紹介しています。
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