世界の悲しみを、ひとりで背負わないで。「天気の子」を見て考えたこと(ネタバレあり)
途中からずっと泣いていた。
エンドロールが流れ始めてからも、エンディング曲の歌詞を聞いてまた泣いた。
世界が君の小さな肩に 乗っているのが僕にだけは見えて 泣き出しそうでいると
「大丈夫?」ってさぁ 君が気付いてさ 聞くから
「大丈夫だよ」って 僕は慌てて言うけど
なんでそんなことを 言うんだよ
崩れそうなのは 君なのに
「大丈夫 (Movie edit) 」RADWIMPS
Source: https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/radwimps/daijoubu-movie-edit
陽菜ちゃんは母のために強く祈って鳥居をくぐったとき、空とつながった。自分を犠牲にすることと引き換えに、晴れをもたらす力を手に入れた。
異常気象で雨が降り続く東京で、陽菜ちゃんは人を笑顔にするために晴れを祈り、そのたびに自分をすり減らす。そしてとうとう、この世界に生きられない身体になったのだ。
でも、その事実を知っている人は誰もいない。
いや、たとえ事実を知ったとしても、けいちゃんがポツリと口にしたように、多くの人はこう思うのかもしれない。
一人が犠牲になって世界がよくなるなら俺はそのほうがいい。誰だってそう思うだろ?
帆高は、泣いて怒っていた。
みんな、誰かの犠牲の上じゃないと生きられないくせに。陽菜さんと引き換えに青空を手に入れたくせに。
***
「陽菜ちゃん」は、私たちの周りにもたくさんいる。大小さまざまな「世界」を救おうとして、自分をすり減らしている人。
人の悲しみを、世界の悲しみを、どうしようもできないたくさんの悲しみを、ひとりぼっちで背負いこんでいる陽菜ちゃんのような人が。
例えば、機能不全家族の中で必死に家族をつなぎとめようとしている子ども。
例えば、人の悲しみを自分のもののように受け取って、心のバランスを崩してしまう人。
例えば、さまざまな社会の悲しみに向き合って行動している人。
何らかの「当事者性」を持って活動している人は、エネルギーも大きいけれど、受けるダメージも大きい。救えなかった誰かに自分を重ね、悔やみ、立ちはだかる問題の大きさに呆然としながらさらに自分を追い込むのだ。
そんな優しくて強い人たちを、私は何人も知っている。その人たちが涙をこぼすとき、自分まで泣いてしまうことがある。
なんでそんなに優しいの?
なんでそんなに、自分よりも人のことを思いやるの?
あなた自身のことは、誰が大切にしてくれるの?
泣いて飲み込んできた思いが帆高の憤りに重なって、涙が出た。
***
天気なんて狂ったまんまでいいんだ!
と帆高は叫ぶ。
陽菜ちゃんは世界を救うことをやめて、この世界で生きることを選んだ。
そして雨は2年間降り続け、東京は水没する。
「あのあたりは、もともと海だったんだよ。もとに戻っただけなのかもしれないねぇ」と家が水没したおばあちゃんは言い、
「世界なんてさーーどうせもともと狂ってんだから。」とけいちゃんは言う。
狂った世界は、便利を求めて人々が選択してきたことの結果かもしれないし、何をどうしたっていずれ訪れる自然の摂理かもしれない。
いずれにせよ。世界を救えなくても、それはあなたのせいじゃない。
たったひとりで、世界の悲しみを背負わなくても良い。
それよりもまずは ─自分のために祈って。
一番に自分の幸せを祈ることができるのは、他でもないあなた自身だ。
それによって救われるのは、あなたの身近で大切な人だ。
一番に自分の幸せを祈って、それから、世界の幸せを他の人と共に祈ろう。世界の悲しみはひとりで背負うにはあまりに重たいから、共感してくれる複数人でわかちあおう。
次から次へと悲しいことが起きる私たちの世界と「天気の子」の世界は、延長線上にある。ファンタジーのようでリアルなこの物語から汲んだメッセージは、これから自分のなかで、よりクリアになっていくような気がする。