#エッセイ 『昔話を聞く』-デカンショな生活 -
僕は子供のころから大人の昔話を聞くことが好きでした。自分が生まれる前の世の中がどんな感じだったかという事を大人から聞くのが子供のころからの楽しみの一つでした。自分の祖父母や両親、親戚の叔父、又は学校の先生がしてくれる昔話は僕にとって本当に興味深いものが多かったです。そんな中で、大学一年生の時に自分が通っている学校の教授が話してくれた昔の思い出話が印象に残ったので今回はその時の話を思い出したので書いてみます。
その教授は数学が専門の先生で、見た感じではもうとっくに定年を迎えるであろうと思われるおじいちゃんでした。数学の先生にありがちなチョッと変わった人で、その先生は昼間からチョッと酔っぱらっている感じがする人でした。教室に入って来るたびに“大丈夫かいな・・この先生は・・”なんて思っていましたね。その日の授業内容は確か微分法の『ε-Δ法』の様な事を講義していた記憶があります。“そこの部分が微積の肝心な内容になるから今日はノートを取らずに注意深く講義を聞きなさい”、という事を言われて皆で膝に手を置いて先生の話を聞いていました。先生曰く、“これが微積分を支える理屈だから、大学の数学はこれだけ学べばよろしい!”という事でした。その時のその先生の話が分かり易いものであったかどうかは別として、自分の頭を使いながら説明をちゃんと聞くと、とても抽象的な理屈だったのですが、なんだかその話が全体的にフッと理解ができるんですね!『なるほど・・・込み入った話やチョッと難しい抽象的な聞く時はノートなんか取っていれば分からなくなるなぁ・・・』という事をその時に学んだ記憶があります。その説明を終えると先生は、
『どーだ?お前ら理解できたか?大学の数学はこれだけ理解できればもう後はいいよ!どうせお前らも勉強なんぞせんのだろ(笑)!』
と言い出しました。“まぁそりゃそうなんだけどね・・”と思いながらその部分を聞き流そうとしたのですが、先生は続けてこんなことを言い出しました。
『ワシはギリギリ戦前の教育を受けた最後の世代なんだ!』
と言い出しました。それから先生は戦前から戦後すぐの頃の昔話をし始めました。
『戦前はな、学校制度が今と違ったんだ。小学校は尋常小学校といわれてな、戦時中は国民学校なんていう風に呼び名が変わってたんだぞ。義務教育はそこまでだ。そんで多くの人は小学校を出て丁稚奉公に出て働くんだな。もうちょっと勉強したい奴は高等小学校というのがあってな、あと二年学ぶんだ。そして丁稚奉公に出るんだな。有名どころで言えば、田中角栄なんかは高小卒だぞ。ありゃー大した奴だよ!ホントに!(笑)そしてな、小学校の後は中学校があるんだけど、その当時の中学校は義務教育じゃないんだな。戦前の中学は五年制でそこに行くのは、そうだな・・大体学年の一割くらいだったな。そこを出て働くやつもいるんだけど、中学を出るともう当時の世の中ではエリートさんだったんだよ。今ではその当時の中学校は旧制中学なんて呼ばれて、お前らが通った中学校と区別するようにしてるな。現代で云うならまぁ高卒と同じ感覚なんだけど、そこまで行くのも大変だったんだぞ。今の高校野球なんかあの時は中等学校野球選手権なんて言われてたんだぞ。まぁ十三歳から十七歳までの学生だから甲子園がそんな感じだったのも理解できるだろ・・』
と戦前の話をしてくれたのです。いわゆる教師の脱線話です。僕にしてみれば“あらー、こりゃ面白い話が始まったぞ!”と、そりゃーもうワクワクです。それから先生はまだまだ続けて、
『旧制中学を出ると、さらにその一割くらいが高等学校に行くんだよ。これも今の高校と区別するために現代では旧制高校なんていわれているな。今の時代は大学入試が大変だろ。でもあの当時は旧制高校の入試が大変だったんだ。旧制高校は今の大学の一、二年に相当するんだ。今の制度ではピンとこないだろうが、当時の旧制高校を出るとだな全員が官立(国立)の大学に入学できたんだ。要は法律でそうなっていたんだわ。』
と昔を懐かしむように話をしていました。話をする先生の目線は生徒には向かって無く、少し遠くの後ろの黒板の方を見つめている感じで昔を懐かしんでいる風でした。
その話を聞いた時に、“大学に全員入れるとはどんな仕組みなんじゃ?”と思って後日自分で調べてみました。そうしたらその時代を旧制高校で過ごした色々な人たちが書き残しているんですね。自分の思い出として。そして多くの人が楽しかった思い出として手記を書き残しています。それらを読んで分かった事は、旧制高校と旧制大学は一体の教育になっていたようで、旧制高校の学生の数だけ大学の定員が確保されていたそうです。それらの大学はいうなれば当時の帝国大学ですね。今の時代では旧七帝大なんて呼ばれているらしく、東京帝大をはじめとして、京都、北海道(札幌)、東北(仙台)、名古屋、大阪、九州(福岡)そして台湾と今の韓国ソウルにもあったそうです。当時の旧制の大学は専門課程しかなかったそうで、その教育課程は三年制だったそうです。だから旧制高校の学生は大学や学部を選ばなければ、卒業後にそれらのどこかには必ず進学が出来たという事らしいです。そうなるとこの先生の言う通り旧制高校の受験が今の大学受験と同じという意味がよく分かります。但し、人気の高い東大や京大は選抜試験があったとの事です。これらの事やその時代に過ごした旧制高校での生活の様子などは後に政界や財界などで活躍したお年寄りが沢山書き残していますので、その気になれば年配の人の手記を読めば誰でも簡単に調べる事ができます。手記を残した中で有名な人では、元首相の中曾根康弘氏や元官房長官の後藤田正晴氏などはご自身の手記で楽しかった思い出として書いていたりしますね。まだご存命の方では読売新聞の渡辺恒雄氏(通称ナベツネ)なども書いていらっしゃいますね。
そしてノリに乗ってきた先生の話はまだまだ続きます。
『旧制高校は三年通うのだが、今の大学一、二年と同じ課程だから、いうなれば大学の教養課程だな。そこに入るときに理系と文系に分かれるんだ。当時はだな、高校に入ると第二外国語があってだな、大体がフランス語かドイツ語だ。フランス語とドイツ語でコースが分かれるんだよ。理系でドイツ語を取れば理科甲類とか言ってな(笑)まぁそんな感じだ・・』
教室で一緒に聞いていた他の多くの学生はポカンとした顔をしてきいていました。せっかくの脱線話だったのにまぁ興味が持てなかったのでしょう。それはそれで分かります。そんな事は興味がなければクソ詰まんない話にしか聞こえないでしょう。おそらくあの時にあの教室内で先生の話を楽しんで聞いていたのは、人の昔話が大好きな僕だけだったかもしれません。
でも、実は先生の言いたかったことは、なんと、ここから先だったのです。
『楽しかったんだぞ、旧制高校は・・・。あの当時はな、入学するとみんな競い合うように哲学書を読むんだよ。大体がデカルトの“方法序説”から始まってカント、そしショーペンハウエルをとだな、大体半年かけてみんなウンウン唸りながら読むんだよ!そんでいっちょ前に分かったつもりになるのよ!当時の学生連中は旧制高校に通う意味を哲学の授業に見出していたんだな。“それを学べるのが俺らの特権”と思っていたんだよ。まぁ旧制高校に入らないと哲学は学べなかったんだな!あの頃は・・』
それを聞きながら僕はフムフムと、“しかしそのショーペンハウエルとは何者ぞ?”と思いながら聞くのですね。“そんな人知らんなぁ・・・”と思いながら(今でもよう知らんのですが・・ドイツの哲学者という事ぐらいしか分からんですわ(笑))。先生はさらに続けて
『当時の学校は全寮制でな、みんなそこで酒を覚えるんじゃよ。そして夜な夜なみんなで集まって酒酌み交わしながら読みたての哲学の話なんぞをやるんじゃ。まぁ今思えば覚えたての書生論だな・・。授業なんてほとんど出なくてな、昼間は寮の布団でイビキかいて寝て、夜になるとノソノソと起きだして酒飲んで書生論の続きさ。今の君らの生活と本質的にはなんも変わらんのじゃよ!(笑)』
それを聞いて“アラそうなの?もしかしたら俺らにもっと酒飲んで麻雀でもしろとおっしゃっているのですかな?それとも居酒屋で大酒飲んで酔いがさめたら照れちゃうくらいの議論でもして来いとでも・・それなら俺たち幾らでも頑張れますよ!何だったら今からでも・・”なんて都合のいいアホな解釈がムクムクと僕の頭の中で始まるんですね。ですがこから先生の話のトーンが少し変わって
『今の時代はキミら大学生の生活を“モラトリアムな時間”なんていうだろ。ワシらの頃はだな、デカルト、カント、ショーペンハウエルの名前をもじって“デカンショな生活”なんていわれたんだよ。やっとの思いをして入れた旧制高校も哲学さえ学べて、そして酒の飲み方を覚えれば後はもう結構!っていう感じだったな。思い出すと懐かしいわ・・“♪デカンショ~デカンショ~あとの半年しゃ寝て暮らそ!♪”なんて寮で車座になって酒飲みながら歌ってな・・・』
それはそれで、そんな生活もなんか羨ましいと思いながら聞いていたら
『実は何だっていいんだよ!君たち今の若いうちに瞬間的にでもいいからキッチリと要所要所で物を考えてみなさい。今日ここでワシが講義したこのε-Δでも何でもいいんだ。そしてこんなもん次のテストが終われば忘れてもいいんだぞ!だって君ら会社に入ってもこんな知識は使わんのだぞ!(笑)』
と言い出したんですね。僕は思わず心の中で“おい、先生よ!そりゃメチャクチャな意見だよ”と思ったら、先生は続けてこのような事を言い出しました。
“私たち人間は学んだこと、身に付けた知識は覚えた先からドンドン忘れていきます。それじゃあ学んだ意味が無いと思うかもしれないがそれでいいんだ”というような意味の事を言っていました。“そして忘れるのは人の宿命だし、逆に忘れていかないと新しいことも覚えられんよ!”と・・・。“じゃあ時間をかけて学ぶ意味は何ぞや?と思うかも知らないが、忘れてからが勝負なんだ。知識は消えるかもしれないが、頭を使う方法というノウハウはちゃんと残る、これが残るという事が大切なんだ!“と強調していたことは今でも忘れられません。
『人生はみな常に悩んだり考えたりしながら進むんだよ。その時に上手に悩んだり考えたりできるように今頭を使っておきなさい。そうじゃないと、お前ら袋小路に迷い込んで“下手な考え休むに似たり”という事になるぞ・・・。』
話を聞き終えて“おお・・・思わぬいいを話聞いちゃった。ってか、この先生単なる酔っ払いじゃなかったんだぁ”と変に感心した記憶があります。
それから数年後、僕は社会人になって会社に入り忙しい日々を送ってきました。そして仕事の合間にこの日に聞いた話を時々思い出したりしています。歳を重ねるにつれて、あの時に聞いたこの話が僕の中で重みを増していくような気がします。それを反芻するように思い出す事が、僕にとって段々とその考えが自分の物になっていくプロセスだったような気がします。今ではこの話が僕の大切な思い出になり、また大切な思想の一つになっています。
そしてこれが僕が皆さんに披露できる昔話の一つです・・。(笑)