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ネガティブな自己評価が生まれたとき、自分で反証するために「記録」をつけよう

感情は認識のバイアスを生み出す

学生の時ぶりに定期的に日記を書き始めて、一週間単位でサイトに更新するために見返す、ということをやっている。

新鮮だったのは「自分はいつも同じようなことで右往左往している」という発見だった。

発見というか、知っていた。
何しろ、自分のことなのだから。

しかし、日記において、日々自分が、そのたびに新鮮な感情として「今までにない大変さだ」とか「さすがに今回はもうダメだ」とか書き記しているには驚く。その瞬間は本当にそう思うのだが、それはもう、何十年もやっていることなのだ。

自分はいつも何かを忘れてしまう。何かが積み重なっていかない。そのたびに新鮮に湧き起こってくる感情は当てにならない。

記録は感情への反証になる

自分は、日頃からネガティブな感情に圧倒されることが多い。ネガティブな感情で心が満たされると、前述のように「体験がその都度、新鮮な苦しさを伴って感じられてしまう」という状態になる。

そういう状態の時は、不安で、恐怖におののいていたり、自分の存在が無価値に感じられ、未来が灰色に思え、何もかもがすべて終わったと「本当にそのように感じられる。

しかし日記を読めば、「それはパターン」であり、「波がある」ものだということがわかる。良くない波はいつかは過ぎ去る。

記録は、感情が見せる灰色の現実に対する、理性の反証材料になる。認知行動療法の本質は、おそらくそういうことなのだと思う。

自己評価は揺らいでも、他者からの評価は揺らがない

感情への「反証」として有効なもう一つは、他者からの評価だろうと思う。

評価と言っても、仕事における業績や能力評価ではなく、「親しい人からの自分の印象」とか「長所や短所」といったものである。そういうざっくりとした私という人間へのまなざし、はそうそうに変わるものではないはずだ。
「私はどういう人間か」ということを調子の良い時に聞いておくといいと思う。

ネガティブな感情に振り回されていると、自己評価が低いところで安定しつつも、結構揺れ動く。あるときは「そうそう悪くない」となり、次の瞬間に「クソみたいなやつ」となり、ひどいときは「何の価値もない人間」となる。

このように、自己認識や自己評価は感情によって揺らぐ。しかし他者からの評価はそうそう揺らがない。自分というものはそんなに変わったりしない。だから大丈夫だ。

そういうことを一つ一つ、感情に対する反証として地道に用意することで、自分というものに対する「地固め」ができてくるのだろうと思う。まだ先は長い気もするし、意外にトンネルの出口は近い気もする。

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