【日本語の謎】なぜ、地名や県名は漢字二字なのか?
現在の47都道府県のうち、神奈川、和歌山、鹿児島の3県以外は、漢字二字で表記します。他の地名や人名なども、その多くは漢字二字です。
また、旧国名や古い地名には、大和(やまと)や和泉(いずみ)など、漢字二字であるだけでなく、特殊な読み方の名があります。
私の地元の車は「和泉ナンバー」ですが、「いずみ」って読むなら、「和」は必要ないやん、と昔から思っていました。
しかし、多くの人は地名や名前は漢字二字の表記が標準で、一字は地名らしくなく、三字や四字では長いと感じるのかもしれません。
この漢字二字を標準と思う感覚は、潜在意識に根付いているもので、以前の記事と同じように情報操作されているかもしれない、と不安になって調べてみました。
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以下が調査結果です。
なんと、漢字二字表記の発端は政府主導でした。
今から約1,300年前、奈良の平城京を都とした奈良時代、元明天皇の御代、和銅6年(西暦713年)に出された勅令「諸国郡郷名著好字令」が発端のようです。「好字令」または「好字二字令」ともいわれます。
「好字」とは「良い意味の漢字」という意味で、これは当時、日本にとっての先進国であった唐(中国)に倣ったものです。日本は遣唐使を派遣して、唐の制度や文化を積極的に取り入れていました。
それまでは、漢字の音読みで当て字表記していた地名を、唐の「長安」や「洛陽」のように、日本も「好字(良い意味の漢字)」の「二字」で統一し、戸籍の整備を行ったようです。
そのため、「倭(やまと)」を「大和」、「泉」を「和泉」と表記を改めたのです。埼玉や東京の昔の地名は「武蔵(むさし)」ですが、かつては「无射志」や「牟佐志」、「胸刺」など複数の当て字表記があったようです。
また、「木国(きのくに)」は「紀伊国(きいのくに)」と改められ、一字だった国名が二字に変わりました。「群馬」の県名の由来となった群馬郡は、元は「くるまのこおり」といい、「車」と表記していたのを「群馬」と改めて、地名も変わってしまいました。
地名は、古代から変わらない地域もありますが、為政者によって地名が変更されたり、漢字の当て字が「好字令」によって漢字が変わり、「訓読み」から「音読み」に変わって、全く違う地名になる場合もあります。
阪神タイガースの歌「六甲おろし」で有名な兵庫県神戸市の「六甲山(ろっこうさん)」は「音読み」です。山の名の変遷を辿ると、「六甲山」の前は「武庫山(むこやま)」でした。簡単な漢字に変えた上に、読み方も「音読み」に変わっています。
「武庫山(むこやま)」と呼ばれる前は「向津峰(むかつみね)」と呼ばれていました。その由来は「ムカツ姫」です。「ムカツ姫」とは「瀬織津姫(セオリツ姫)」の別名であるため、六甲山中にある大きな磐座(いわくら)には瀬織津姫が祀られていると、近年、明らかになりました。
現在の「六甲山(ろっこうさん)」を「訓読み」にすると、奇跡的に「むかつやま」と読めます。山の名の表記が「六甲山」になったことには、神様の意図が働いているのかもしれません。
このように神様の別名が神社名や地名の由来になっていても、しっかり伝わっていないものが数多くあります。
例えば、茨城県の鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神の別名は「カシマカミ」です。「カシマカミ」の宮があったから、神社名と地名に「鹿島(鹿嶋)」が使われているのです。
島根県の出雲市や松江市を流れる斐伊川(ひいかわ)は、かつては「ひかわ」と呼ばれ、「簸川」または「肥河」と表記されました。八岐大蛇(やまたのおろち)神話に登場し、オロチを退治したスサノオ(ホツマツタヱでは「ソサノヲ」)は、功績を認められて「ヒカハカミ」と呼ばれました。
武蔵国に総本社のある「氷川神社(ひかわじんじゃ)」の主祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)ですが、神社名の由来は川の名ではありません。「ヒカハカミ」を祀る神社だから、「氷川神社(ひかわじんじゃ)」なのです。
神話には登場しない女神「瀬織津姫(セオリツ姫)」や、天上界にいるはずの神々と地上にある神社との関係など、神話では分からない歴史は『ホツマツタヱ』から読み解けます。
『大和言葉(ヤマトコトハ)』を学び、伝えることが私のライフワークになっています。『大和言葉』のルーツといえるのが、『ヲシテ文字』や『ホツマツタヱ』です。ぜひ一緒に学びましょう!
▽ライブ講座で学ぶ『ヲシテ文字』
▽動画で学ぶ『ヲシテ文字』
▽『ヲシテ文字』から名前に込められた意味を読み解く『おとたま占い』
▽『ホツマツタヱ』から神様と神社参拝について学ぶ
【激動の時代~歴史の裏側を読む~】
日本は、唐の制度や文化を積極的に取り入れたのか
それとも、唐の属国になっていたのか?
【年表】
645年 乙巳の変(大化の改新)最初の元号「大化」
中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺、父の蘇我蝦夷は、大邸宅に火をかけ自害し、書庫が炎上
天皇記などが焼失、国記は難を逃れるが現存しない
663年 白村江の戦い唐・新羅連合軍に敗北 ➡防人を配置
672年 壬申の乱(古代最大の内乱といわれる)
大友皇子(天智天皇の子)対 大海人皇子(天智天皇の弟)
壬申の乱後、天武天皇が国史編纂を命じる
681年(天武10年)正史編纂を命じる
712年 古事記成立(国史・和文、33代推古天皇まで)
713年 好字令
720年 日本書紀成立(正史・漢文、41代 持統天皇まで)