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【エッセイ】元ヤン書店員にささぐ

例えばいじったバイクを乗りまわし、夜な夜な校舎のガラスを割る。先生や警察に反抗し、喧嘩上等と肩で風を切って歩く。

まあこれは極端な例として。世間の元ヤンへの印象をざっくり言うと、荒れた十代を過ごしたものの年とともに落ち着いた人…こんな感じだろう。

Nは元ヤンだ。出会ったのは中1で、当時は素直でハキハキした可愛い女の子。一緒にいると楽しくて、私たちは学校が終われば毎日のように遊んだ。

まず向かうのはたいてい地元のS書店。遊ぶというかぶらぶらしお気に入りの漫画を買い、途中の広場でひとしきり喋って帰る。田舎町だったので他に行く所がなかったのだ。

しかし家庭環境の悪さからか、Nは徐々に学校に来なくなる。ひさびさに見たと思えば赤く染めた髪をつかまれ教頭に引きずられるNの姿。成績も学年で上位だったのに、いつしかNは地元で知られた不良になった。

それでも私たちが疎遠になることはなかった。遊んで帰りが遅くなり、私の親にNが責められたこともある。この夜のことは今でも忘れられないし、Nも生涯忘れることはないだろう。何度も喧嘩をしたし絶交もした。けれど時が経てば私たちは自然と連絡を取りあった。私はNのサバサバして男気ある性格が好きだった。

結婚式には上京先から駆けつけた。とかく華やかで知られる名古屋の嫁入り。そのいわれ通り見事な式で三度のお色直しをしたNは女優顔負けのかわいらしさ。ちなみにブーケを「これは泰子に」と手渡されたのは後にも先にもこの時だけだ。

誰もが幸せで、順風満帆に見えた結婚式だった。しかしNは第一子を出産した後旦那と死別し、怒涛の二十代を駆け抜けることになる。もし私がNの立場だったらどこまで耐えられたか自信はないくらい。このあたりのことはいつかゆっくりと記したい。

三十を過ぎた頃、Nは商業施設に入る書店で働き始めた。

飲食店以外の仕事はめずらしかったが、私は足繁く本屋に通った日々を思いだした。そう、Nは昔から本屋が好きだったのだ。また私はNとバイトをしたことがあるが、若い頃から厳しい上下関係やしきたりに揉まれていたせいか時間や挨拶には人よりも厳しかった印象がある。

新たな職場でもNの仕事ぶりは発揮され、あいさつの声が小さいバイトには「おはよう!」と相手がびびるほどの声で返し、見本にならんとした。子供が走りまわったり、ひじをついて本を傷めるような読み方をしたりすれば毅然と注意をする。もちろんカスハラにも動じない。Nのパトロールにより書店の秩序はかなり向上したはず。ただふだんは漫画しか読まないので、又吉直樹の『火花』を「花火です、花火」と誤って注文してしまったり、また樹木希林のエッセイを一桁多く発注してしまったが、思いのほか売れ逆に褒められたりもした。

そして、勤務年数はいつしか10年をこえた。

一方、私は脚本家を志したもののなかなか芽が出ず、ただひたすら企画やプロットを書く日々を送っていた。

このままでは長いものが書けなくなる…と小説を書き始め、ある時、とある文学賞の最終選考に残った。
主催の分厚い文芸誌の巻末に載せられた、一行のペンネームとタイトル。Nはそれだけのために冊子を買い、今も持っている。

「泰子の本を売るまでは辞めない」

Nはそう言った。パートとはいえ仕事の内容は社員と変わらず、時にはやってられっか!!と憤ることもあるらしい。信じて待ってくれている人がいる。何をやってもうまくいかなくて、自分すらも信じられなかった時期に、私はいったいどれだけNに励まされただろう。そして、書き続けた。

師走を前に、長く働きかけていた小説の出版が決まった。真っ先にNに報告したことは言うまでもない。20数年前ブーケを手渡してくれたように、初めて世に出す小説を今度は私がNに手渡したい。これまでの感謝とともに−

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東山泰子(ヤスユキ)
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