吉田遼平評 フレッド・シャーメン『宇宙開発の思想史――ロシア宇宙主義からイーロン・マスクまで』(ないとうふみこ訳、作品社)
宇宙を目指す「われわれ」の過去、現在、そして未来――宇宙開発が転換期を迎えている現在、一つの「碑」のような書
吉田遼平
宇宙開発の思想史――ロシア宇宙主義からイーロン・マスクまで
フレッド・シャーメン 著、ないとうふみこ 訳
作品社
■一九六九年の夏、人類がはじめて月を歩いた。「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」というニール・アームストロングの言葉とともに、人類の長年の夢が実現し、その栄光の瞬間は歴史に刻まれた。一方でそこに至るまでの過程で生じた膨大な犠牲に関する記憶は、時間の経過とともに薄れてゆく。アポロ十一号が月面に降り立つまでには、巨額の予算がつぎ込まれ、宇宙飛行士たちの死亡事故があり、使用されたロケットの歴史を辿れば、数万人もの人間が死亡している。
『宇宙開発の思想史』は一つの「碑」のような存在だ。宇宙を目指してきた人類の過去の犠牲を悼みながら、未来に期待を込めつつ警鐘を鳴らしている。人類は宇宙で何を達成しようとしており、そのためにどんな代償をこれまで払ってきたのか、またこれから払おうとしているのか。それを考える上で、今このタイミングで本書が世の中に出た意味はとてつもなく大きい。というのも、宇宙開発は現在ある転換期を迎えているからだ。
「宇宙条約」というものをご存じだろうか?一九六七年に国連を通じて発効した国際法で、国家が「天体を含む宇宙空間に対して領有権を主張すること」を禁じ、宇宙を人類の共通財産として護ってきた。しかし実はこの「宇宙条約」が現在、事実上効力を失いつつあるのだ。二〇一五年にアメリカでオバマ大統領が「宇宙活動促進法」という法律に署名、それによって「宇宙資源の商業的探査と開発」を行う権利が米国政府、民間企業、個人を対象に正式に認められた。続いて二〇二〇年、トランプ大統領が「米国は宇宙を人類の共通財産としては見なしていない」と公式に発表し、他の加盟国にも同様に「宇宙条約」の拒絶を促した(日本では二〇二一年に「宇宙資源法」が成立している)。資本主義はいよいよ宇宙に向けて一気に膨らみ始めたのだ。
本書『宇宙開発の思想史』は、宇宙資源革命の幕開けを目の当たりにしている私たちに、「われわれは何故宇宙で生きることを考えるべきなのか」(十二ページ)という問いを投げかけている。この問いには多くの人が面食らうはずだ。宇宙に行ったこともないのに、いきなり宇宙で生きることを考えろと言われても無理な話ではないか、と。
また、宇宙に進出することが正式に個人の権利となった今、改めて「われわれ」を主語にした問いかけをすること自体、一見不自然に思えるかもしれない。しかし、個人の権利の行使や利益の追求だけを目的とした行為は、間違いなく他の人間や環境に悪影響を及ぼす。宇宙に存在するとされる莫大な資源で一攫千金を狙う人間の欲望が暴走すれば、取り返しのつかないことになる。だからこそ一人一人が「われわれ」という視点をもち、自分が今のところ宇宙に行きたいかどうかに関わらず、人類がどのように宇宙というフロンティアに臨むべきか、当事者意識を持って歴史から学ぶことが大切である。
もし「われわれ」という言葉が、宇宙を目指す一部の限られた集団のみを指すことになれば、いったい何が起きるだろうか。初期ロシアの宇宙主義者、ニコライ・フョードロフとコンスタンティン・ツィオルコフスキーは、人間という存在を永続させるための社会主義的「共同事業」としての宇宙開発を構想していた。その中で「高等」とされる「意識的な存在」によって「下等」な存在である「蒙昧な力」は駆逐されてしまう。それと同じように、宇宙で生きることを選ぶ「われわれ」と、地球に残る「われわれ」ではない人間の間に、序列関係や差別意識が生まれてしまうことは十分予想される。
また一九六二年「われわれは月へ行くと決めた」とジョン・F・ケネディは語った。この演説の五年前には、世界初の人工衛星スプートニク一号がソ連によって打ち上げられ、前年には同じくソ連のユーリ・ガガーリンがボストーク一号で既に大気圏外を飛行していた。宇宙開発は国家間の威信をかけた争いだった。ケネディは不遇な扱いを受けていた黒人の代表としてエド・ドワイトを一九六一年に宇宙飛行士候補者に指名した上で、翌年の演説でこの「われわれ」という言葉を用いている。ソ連との競争に打ち勝つために政治的に黒人の支持を得ようという狙いがあったことは否めず、本質的な人種差別の問題は一向に解決の兆しが見えない。
同様に「われわれ」という言葉で宇宙で生きることを選ぶ集団をくくったとすれば、そこには国籍、人種、宗教、性、障がいなど多様な背景を抱えた人間が混在することになる。だが商業目的の、利害関係を重視する集団が「われわれ」を語ったところで、そこに本当の意味での連帯感は生まれるはずもなく、形骸化した「われわれ」の中での衝突は不可避となる。これまでの宇宙開発史におけるありとあらゆる犠牲の結果が、まさかの宇宙における人間同士の衝突だとすれば、それはあまりに皮肉なことではないか。
それとも「われわれ」と「われわれ」ではない人間との分断、そして「われわれ」内部での対立すら、宇宙に進出する上での必要悪として割り切ろうというのか。本書を通じて宇宙開発に関する過去の思想を遡ることで「われわれ」の現在の立ち位置を知り、そして未来について一緒に考えられれば幸いである。
(高校英語教師/翻訳者)
「図書新聞」No.3654・ 2024年9月7日号に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。