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柳澤宏美評 イレーヌ・ネミロフスキー『ジェザベル』(芝盛行訳、未知谷)

読者を引き込む魔術的な女――魅力的な文章の背後に人間の欲深さと複雑さが潜んでいる

柳澤宏美
ジェザベル
イレーヌ・ネミロフスキー 著、芝盛行 訳
未知谷

■タイトルの「ジェザベル」とは旧約聖書「列王記」に登場するイスラエル王アハブの妃を指す。故郷の信仰を持ち込み、ユダヤ教を弾圧した彼女は、最終的には預言者エリヤの言葉通り、悲惨な最期を遂げた。戯曲や絵画の主題にもなり、迫害者であると同時に美しいが魔術的な要素のある女性として知られてきた。
 物語は一九三四年のフランスで起こった事件の裁判から始まる。被告人はグラディス・アイゼナハ。ベルナール・マルタンという二十歳の恋人を殺害した罪で起訴されている。被告人への質問で語られたグラディスの生い立ちと事件のあらましは以下のようなものだ。南米で生まれたグラディスは、父を知らず、母と共に各地を転々としながら幼年期を過ごした。結婚し、娘をひとり儲けるが、夫を亡くし、その二年後に娘も亡くなった。母親と夫から得た遺産で何不自由なく、世界各地を旅しながら生活しており、ここ十年ほどはパリで暮らしている。イタリア家系のモンティ伯爵と婚約したにもかかわらず、パリの学生であるマルタンと関係を持ち、婚約を一方的に破棄した。マルタンに金を渡しており、最終的に彼を射殺してしまう。
 被告の恋人である伯爵、若い友人、親戚、メイド、被害者の隣人や住んでいたホテルの使用人などが証人に立ち、ふたりに何が起こったのかを語る。上流階級の夫人とパリの苦学生がどうして知り合ったのか、なぜ身分のある恋人がいるにもかかわらず、歳の離れた学生と会っていたのか、そしてなぜ殺したのか。被害者はグラディスのことを「ジェザベル」と呼んでいたことも証人の口からわかる。一方、裁判の傍聴人たちは真実を知るよりも美しいと評判の被告人に興味を持っているようで、女優を見ているかのような発言がされる。しかし、その関心も閉廷すると同時に失われ、ありふれた情痴犯罪として人々の記憶から忘れられていく。
 物語は裁判を描いたプロローグの後、グラディスの過去をたどり、事件の真相を暴いていく。そこでは第一次世界大戦前のきらびやかな社交界と「狂乱の時代」と呼ばれた戦間期を背景に、グラディスを中心とした人間の持つ恨み、妬み、羨望などが描かれ、読み手をぐいぐい引き込む。十五歳でロンドンの社交界にデビューしたときからその美貌を自覚したグラディスは「目を開ける前に、無意識に手で鏡を探」すことを毎朝の習慣にしたほどだった。だが、娘が成長し、自分の老いを否応なく感じるようになると、子との関係にも不協和音が響き始める。グラディスの若さに対する執着、執念は彼女の言葉や友人たちの言葉から繰り返される。「私に必要なのは、若さ、影ひとつない絶対的な勝利……〝私、諦められない〟」と。友情、家族でさえも「若さ」のためなら顧みられない。娘や恋人に確かに情愛を持っているにもかかわらず、時にグラディスは「繊細な鼻腔だけが微かに動き、若々しい顔がいきなり狡猾で貪欲で残酷な女の顔になった」、「怒りとほとんど狂気の閃光がその顔を過った―」といった、ぞっとするような表情を表し、そして彼女が最も恐れたものから逃れるために罪を犯すのだ。
 登場人物たちの会話からは、第一次世界大戦前後でヨーロッパの価値観が大きく変化していったこともわかる。グラディスにとって重要な変化は「戦争以来、稀になったのは一人の女のために苦しむ男たちだった」し、マルタンにとってグラディスの言葉はまるで前時代のままで、「あんたは戦争前に眠りに就いて、それ以来目を覚ましていない」ようなものだった。グラディスの生年は小説の中で明確にされていないが、一八七〇年代、すなわち十九世紀後半だったのに対し、マルタンは一九一五年、すなわち第一次世界大戦が勃発した翌年に生まれており、ふたつの世代の隔たりも垣間見える。
 作者のネミロフスキーは一九〇三年に帝政ロシア(現在のウクライナ)でユダヤ人の家庭に生まれた。ロシア革命を逃れて一九一八年にパリに移住し、一九二九年から執筆活動を行う。ナチス・ドイツに占領されたフランスで捕まり、アウシュヴィッツで亡くなった。二〇〇四年、遺品のトランクのなかから発見された未完の長編『フランス組曲』が出版され、近年その他の未発表作や復刊が相次いでいる。本作はグラディスというひとりの人間を通して、二十世紀初頭の華やかな上流階級文化とその衰退を感じさせると同時に、「若さ」信仰や家族関係、世代間の溝といった不変の問題もあぶり出す。魅力的な文章の背後に人間の欲深さと複雑さが潜んでいる。
 (学芸員)

「図書新聞」No.3650・ 2024年8月3日号に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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