竹松早智子評 デーリン・ニグリオファ 『喉に棲むあるひとりの幽霊』(吉田育未訳、作品社)
「消去」に抗い、時代を越えて共鳴する声――救い出された一人一人の声が重なり合い、「女のテクスト」は壮大な文学作品を織り成していく
竹松早智子
喉に棲むあるひとりの幽霊
デーリン・ニグリオファ 著、吉田育未 訳
作品社
■「これはある女のテクストである。」
この印象的な一文は、本作のなかで幾度となく繰り返される。テクストとは通常、文字で記録された書物や文献を指す。しかしこの物語で「テクスト」と称されるものはその限りではない。たとえば、女性によって口承されてきた詩歌や物語。現在ではその多くが文書に書き起こされてはいるが、歴代の語り部の女たちの存在は記されていないことがほとんどだ。それでもその存在は「女のテクスト」となって次の語り部の体に刻まれていく。
本作の著者デーリン・ニグリオファはアイルランドの詩人、著作家である。作品はアイルランド語と英語の二か国語で執筆されており、高く評価されている。本書は散文デビュー作で、初の邦訳作品となる。
この物語の主人公は著者と同名の女性だ。子供のころから空想にふけるのが好きだったデーリンは、十代のころに『アート・オレイリーのための哀歌(クイネ)』(以下『クイネ』)という詩に出会う。なかでも、夫の死を目にした妻が、悲しみのあまり夫から流れ出る血をすくって飲んでしまう一節に心を奪われる。時が経ち、結婚して母親となったデーリンは偶然にも再び『クイネ』と出会い、熱狂的なまでに詩の世界へのめり込んでいく。
この詩を生み出したのは、十八世紀に実在したアイルランドの詩人、アイリーン・ドブ・ニコネルである。アイリーンはケリー県デリナーンの地主であるオコンネル家の一族に生まれた。当時、アイルランドでは英国の支配が進み、カトリックに対する迫害が深刻化していた。アイリーンと夫のアート・オレイリーも抑圧された日々を過ごしていたが、ある日アートはイングランド兵に襲撃されて命を落とす。その悲しみからアイリーンが歌いあげた詩が『クイネ』である。
一般にクイネとは、アイルランドの女たちが声を重ねて歌う葬送歌を指す。文字に残されるようになったのは近年のことで、長年、口承でのみ伝えられてきた。愛する者を失った悲しみをきっかけに、苦しみや憎悪、欲望や妬みといった、心の奥に秘めていた感情が堰(せき)を切ったように流れだすこともあるという。
毎夜、デーリンはある儀式を行う。母乳バンクに寄付するために自分の乳房を搾乳器につなぎ、器械を動かしているあいだ、アイリーンになりかわって『クイネ』を朗読するのだ。デーリンは自ら望んで声も体も明け渡す。
『クイネ』の魅力は詩の行間に潜むさまざまな感情に理由があるのではないかと思い至ったデーリンは、作者であるアイリーンにも興味を持ち始める。だが、いくら文献や資料をたどっても、アート・オレイリーの妻、もしくは政治家ダニエル・オコンネルのおばと形容されるばかりで、本人の姿は一向に見えてこない。周りの女たちも同様だ。男の影に存在を「消去」されていることに憤るデーリンは、今度は資料から男たちの存在を「消去」してみる。すると当時の女たちの姿が鮮明に浮かび上がり、まるで生き返ったかのように目の前で動き出す。
その後もゆかりの地を訪ねたり、家族の手紙のやりとりを読み解いたりして、消えた存在のかけらを集めていく。それでも「消去」された穴はなかなか埋まらない。それどころか、わずかに感じられていた気配すら、時代の流れとともに薄れていく。
しかしデーリンはあきらめない。アイリーンの「消去」された生涯を解き明かすことに使命を感じ、以前にもまして調査に没頭していく。だが、必死になる理由はアイリーンのためだけではない。
デーリンは過去に大きな挫折を経験し、他者に尽くすことでしか自分の存在意義を見出せずにいる。とくに妊娠や授乳はもっともそれを実感できる行為だ。しかし一歩まちがえると、献身というものは自らの存在を「消去」しかねない。
『クイネ』やアイリーンに関する資料を読み込むうちに、デーリンは今まで見て見ぬふりをしてきた自身の内面に何度も向き合うようになる。その作業はつらく苦しいもので、難航するアイリーンの調査と相まって、出口の見えない毎日が続く。
やがてデーリンは、男の影に「消去」された過去の女たちや、自分と同じように日々に忙殺されながら生きる女たちの気配をあらゆる場面で感じとる。食器のかけら、さまざまな世代の女たちを映してきた鏡、授乳のために起きる夜、アイリーンの家族が暮らした屋敷の跡地、傷だらけの自分の体。どれも文字という整った形で残されてはいないが、それは彼女たちが存在しなかったことには決してならない。十八世紀の『クイネ』の詩が「消去」された多くの女たちの存在を内包して伝承されてきたように、「女のテクスト」はさまざまに形を変えながら後世に受け継がれていく。
するとデーリンは、自らも「女のテクスト」をつむぎ出し、「消去」されゆく存在から抜け出せるのではないかと気づいていく。何世紀も前の声が時を越えて共鳴し、自分自身が抱えていた苦しみから解放されていく。
著者ニグリオファは、主人公デーリンに自身を投影し、現在と過去、現実と虚構の世界を自在に行き交い、「消去」された存在を浮かび上がらせていく。そうして救い出された一人一人の声が重なり合い、「女のテクスト」は壮大な文学作品を織り成していく。
竹松早智子(翻訳者/ライター)
「図書新聞」No.3661・ 2024年11月2日号に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。