見出し画像

眞鍋惠子評 井上荒野『猛獣ども』(春陽堂書店)

別荘地での熊害事件、しかし本当の猛獣は別の場所にいた――語りの名手による七つのねじれた愛の物語

眞鍋惠子
猛獣ども
井上荒野
春陽堂書店

■早朝、山あいに響く悲鳴を合図に物語の幕が上がる。八ヶ岳の別荘地内で、近隣の町に住む男女が熊に襲われて死亡した。この事件があぶり出すふたりの管理人と定住する六組の夫婦の多様な愛の形がつづられるのが、井上荒野の最新長編『猛獣ども』だ。
 小松原慎一は、住み込みの管理人として三年前に東京から来た二十八歳。熊の事件当日に着任した小林七帆は、別荘の管理会社の東京本社から異動してきた二十五歳。実はふたりにはそれぞれ、信じていた愛を失った過去があり、人知れずその傷を引きずっている。
 管理人たちよりも先に、事件の詳細をなぜか知っているのが別荘の定住者たちだ。被害者の身元や家の場所、別荘地内の林で何をしていたのか、情報は瞬く間に広がる。彼らは、一見すると幸せそうな夫婦ばかりだ。
最近引越してきた扇田夫妻。圭が就職した会社の近くの喫茶店の娘が充琉(みちる)だった。移住後すぐに念願の赤ちゃんもでき、幸せな新婚生活を送っている。しかし妻は常に理由のない不安を抱え、夫はこの結婚が自分にとっての正解だったのか確信が持てない。それぞれ相手に知らせることなく、毎日のように管理事務所に電話をかけるクレーマー夫婦だ。「あの熊が射殺されたそうですが……その熊は、本当にあの熊なんですか?」
 元教師同士の神戸(ごうど)夫妻。結婚以来毎年、油絵の講師だった武生がみどりの誕生日に肖像画をプレゼントしていて、今年で二十七枚目になる。非常に仲のよい夫婦だと自負しているふたりだが、夫は妻に隠し事をしている。恵まれないフィリピンの少年への援助と彼との文通。少年へ送る手紙の中では、武生は柴犬を飼い五年前に妻を亡くしたことになっている。一方、妻は夫の秘密に気づいている。夫の留守中にメールや手紙の下書きをこっそりチェックしているからだ。互いに、この隠し事は大きな問題ではないと考えている。しかしそこには、結婚当初から武生が無意識に抱えてきた大きなわだかまりが隠れているのだった。「みどりがほんの少しの勇気を出して、考えを変えてくれていたら、……俺たちの人生は今とはまったく違ったものになったんじゃないか」。
 東雲萌子と井口文平は小説家同士の夫婦。有名で売れている妻と、同時期にデビューしたものの最近は全く書いていない夫。立場の違いが軋轢を生み、ふたりの間の溝は広がるばかり。妻の外出時に夫は偶然、妻が自分への不満をネタに創作した書きかけの短編小説を読んでしまう。「私がいなければ、あっという間に路頭に迷うくせに。今はまだ口に出さない。出さないでいてあげるのよ」、「嫌みを言いたかったわけではなかったのに。うまくいかない。いつも間違える」。
 柊夫妻は鍼灸院を開いている。子どもが産まれた頃の気持ちのすれ違いが解消されずにやがて諦めに変わり、孫も生まれた現在では憎しみとなった。人前では仲睦まじいカップルを四十年以上演じているものの、実は口を利くこともない関係だ。「レイカのせいだ、恭一は思う。あんな女と結婚してしまった、という点で自分のせいでもあるともいえるが」、「恭一を憎めば憎むほど、対外的な嘘は上手くなっていくような気がする」。
 夫に膵臓ガンが見つかった小副川夫妻。病気が発覚するまでは、驚愕のほの暗い秘密を共有していた。しかし孝太郎は自分の命の刻限以外のことに関心を失い、小百合は六十年近い結婚生活を否定されたような、裏切られた気持ちを抱く。「孝太郎が、死ぬよりも早く、私から離れていこうとしていることへの怒り」、「死が見えた者の気持ちは誰にもわからない。……永遠の蜜月を過ごしてきた相手、愛し愛されてきた女にも、わからない」。
 次々に明かされるのは、表向きは円満なカップルたちの、気づかぬうちに大きくなったしこり、いつの間にか溜まった澱、目を背けていたら広がっていたひび割れ。愛で始まったはずの夫婦の関係は、気がつけばその様相を変えている。普段は蓋をして目を逸らしている心情、夫婦でなくても誰でもが他人に対して心の奥底に隠しているような感情が露わになり、読者は何度も、ヌラリと冷たい手で顔をなでられたような感覚を覚えるに違いない。
 定住者たちの闇が結末に向かって濃くなっていくなかで、管理人の慎一と七帆は相手との距離感を掴めずにいる。慎一は自分を捨てた伽椰子の記憶を七帆の姿に見てしまう。七帆は突然別荘地までやってきた不倫相手の友郎を前に、友郎からも慎一からも逃げ出してしまう。ふたりは過去の心の傷をいつか克服できるのか。人の心に棲む猛獣どもは、熊に殺された不倫カップルを食いものにした後、どこへ向かうのだろう。
 (翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3658・ 2024年10月12日号に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?