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江戸智美評 イーディス・ウォートン『ビロードの耳あて――イーディス・ウォートン綺譚集』(中野善夫訳、国書刊行会)
読者を翻弄する意外な展開、驚きの結末、不思議な余韻――ウォートンならではの彩り豊かな短編集
江戸智美
ビロードの耳あて――イーディス・ウォートン綺譚集
イーディス・ウォートン 著、中野善夫 訳
国書刊行会
■子どもの頃、「ビロード」という言葉は、どこか特別な響きを持っていた。その柔らかな手触りを思わせる響きは、遠い異国の雰囲気とともに、上流階級の優雅さや華やかさを連想させる。イーディス・ウォートン著『ビロードの耳あて イーディス・ウォートン綺譚集』を手に取ると、その響きが思い起こされるだけでなく、美しい装丁に思わず触れてみたくなる。
ウォートンはピューリッツァー賞を受賞した最初の女性作家であり、その鋭い観察力と精緻な描写で知られる。しばしば「お上品な」作家と評されるが、本書はウォートンの別の顔を映し出す。訳者あとがきにあるとおり、幽霊小説に加え、〈幻想でも怪奇でもない、変わった味わいの作品〉を集めた短編集だ。
「あとになって」は幽霊譚の中でも王道といえる作品で、これまで何度も怪奇小説アンソロジー等に収録されてきたというのも納得だ。静かに迫りくる不気味さが印象的で、物語が進むにつれ次第に張り詰めてゆく緊張感を味わえる。「ミス・メアリ・パスク」は、恐怖感を漂わせながらも、最終的には驚きと余韻を残す結末が印象に残る。一方、「眼」は、超自然的な要素を通じて人間の内面に深く迫る作品で、心理描写が際立っている。
本書中、最も不気味に感じたのは「一瓶のペリエ」だ。アメリカ人の若者が〈十字軍の城に住む男〉と呼ばれるイギリス人に招待され、北アフリカの沙漠地帯にある〈半分はキリスト教徒の城塞であり半分はアラブ人の宮殿である古い建物〉を訪れる。だが、肝心の主は不在で、コクニーを話す従僕と、バーヌースという伝統的なフード付マントを纏った下働き数名しか見当たらない。圧倒的な自然に安らぎを覚える若者だったが、日が経つにつれ、事態の異常性を感じ始める。不信感を募らせ心揺れる若者は、〈幻覚を呼び起こす、東洋のイメージに〉あっさり騙された、と自分に苛立つ。この「東洋のイメージ」こそ、当時の西洋が東方に向けたまなざしであり、さまざまな国や地域を訪れたウォートンだからこそ描ける視点だろう。
十九世紀のアメリカで裕福な家庭に生まれたウォートンは、南北戦争後、家族とともにヨーロッパにしばらく滞在した。帰国後、イタリア、フランス、ドイツなどで過ごした日々を懐かしむウォートンは、父の転地療養のために再びヨーロッパに戻る。その後も、北アフリカまで足を延ばし、海外でのこうした経験が作品に豊かな彩りを与えたことは間違いない。本書に収録された十五篇の舞台も、モンテカルロ、ブルゴーニュ、ヴェネツィア、北アフリカの沙漠地帯など、多岐にわたる。
表題作「ビロードの耳あて」は、特急列車のコンパートメントの片隅で、周囲の音を遮断するために〈ビロードの耳あて〉で耳を覆う大学教授が巻き込まれた出来事を描く。療養のためアメリカから南フランスに向かう教授は、その著書に人生を救われたという女性から、紙幣を押し付けられ、謎の依頼を託される。予期せぬ事態に右往左往する教授同様、読者も次々と繰り広げられる予測不可能な展開に引き込まれ、物語の終わりに到達してもどこか奇妙な余韻が残る。
同じく転地療養でも、「旅」の夫婦はニューヨークに戻る寝台車の乗客だ。カーテンの向こうに横たわる夫にかつての強く、活動的な面影はない。今や妻が保護者であり、守るべき存在である。狭い空間で孤立した妻は、〈気づかないうちに視野は狭く〉なり、〈翼を広げることは決して許され〉なかった、と結婚生活を振り返る。やがて明らかになる事実を隠そうと、ポーターが夫のために持ってきた牛乳を飲み干す妻の姿に、孤独と葛藤がにじみ出る。思考回路に危うさが窺える妻は果たして終着駅にたどり着けるのか。
一転してトーンの違う大旅行を描くのが「ヴェネツィアの夜」だ。幼い頃から「ヴェネツィアのサン・マルコ広場」という風景画に憧れていたトニーが、ついにそこに降り立ち、夢を叶える。人混みの中、折り畳んだ手紙が手渡されたのを機に、トニーの運命は思わぬ方向へと急速に転がり出す。誠実で正義感あふれるトニーをはらはらしながら見守る読者を待ち受けているのは、肩透かしともいえる幕引きだ。苦笑しつつ、戸惑う読者もいるだろう。
上流階級の人々を描くことで定評のあるウォートンの本領発揮というべき作品のひとつが、歳を重ねた女性の苦悩を、元マッサージ師アトリー夫人が孫に語る形で描く「鏡」だろう。ある日、枕に顔を埋めて泣いていた顧客の女性に理由を尋ねると、大切なものを失った、という。〈私の美しさ――今朝、ドアからそっと抜け出していくのが見えたのよ〉という言葉にアトリー夫人は〈やれやれ〉と笑いつつ、その女性に必要なのは〈自分の美しさに口も聞けなくなった殿方たちの視線〉だと見抜いている。 女性の喪失感を埋めるため、アトリー夫人は霊能者を装い、亡き恋人からのメッセージを届ける役を担う。ここで描かれる女性の喪失感や美への執着は、男性が自らの老いに直面する「動く指」とも響き合う。死別した美しい妻の肖像画がいつまでも歳を取らないため、主人公は自分だけが老いてゆくことに耐えられず、肖像画家にある作業を依頼する。原作のタイトルThe Moving Fingerの意味については、訳者あとがきで詳しく解説されており興味深い。
ウォートンの作品は、その予想外の展開や独特の余韻を通じて、読者を深い思索の旅へと誘う。どこかにたどり着いたとしても、「それが物語の終わりなのか? 著者の真意は?」と何かしっくりしないものが残る。柔らかなビロードのように見えて、時に苦く、深みのある味わいだ。
(大学講師)
「図書新聞」No.3671・ 2025年1月18日号に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。