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綾仁美評 ユリア・ラビノヴィチ『あいだのわたし』(細井直子訳、岩波書店)

戦争に自分の感受性を奪われないために――もうどうしようもない、という状況がやってきても、主人公マディーナは言葉を綴るのをやめない

綾仁美
あいだのわたし
ユリア・ラビノヴィチ 作、細井直子 訳
岩波書店

■戦争は一九四五年に終わった、と言われる。来年は日本が戦後八十年を迎える節目の年だ。ただそれは、一九四五年に第二次世界大戦が終わった、という意味でしかなく、実際にはその後も戦火が絶えない。今この瞬間もパレスチナで、ウクライナで、世界各地で、戦争や紛争が続き、多くの人々が故郷を追われ、安全な居場所を求めている。
 本書の主人公マディーナも、戦争状態の故郷を離れ、国境線を越えてドイツ語圏の国まで逃げてきた。難民として認定されるかどうかわからない状況のなかで、収容施設から学校に通い、ドイツ語を覚え、友人と関係を築いていく十五歳の日常が、日記として綴られている。
 おしゃれをしたいのに認められないこと、親友に嫌われないかとそわそわすること、自分は普通じゃないのかと葛藤すること――マディーナが綴る悩みは普遍的なものだ。誰しも学生時代には、自分のしたいことを認めてもらえず大人に反発したり、友人とのささいなコミュニケーションにとても気を遣ったりしたのではないだろうか。学校という、一定の基準が定められた環境のなかで、そんな基準に息苦しさを感じながら、ただ心のなかで「わたしの普通も認めてほしい」と思っていたこともあると思う。マディーナが大人やクラスメイトの心ない態度や偏見に抗うように言葉を綴るたび、自分自身の体験もマディーナの言葉と結びついていくようだった。
 そんな自分自身の痛みに閉じこもることなく、誰もが痛みを抱えながら生きていると知ったとき、人は少しだけ大人になるのかもしれない。マディーナも、親友が抱えている痛みを知り、「わたしはその恐怖を知ってる。わたしはその気持ちを知ってる」(二二九頁)と感じられる体験をしながら、周囲との関係を深めていく。日常生活のなかで確かに変化してゆくマディーナの姿が描かれている。
 マディーナの悩みや成長に普遍的な側面があるからこそ、同時に浮かび上がってくるのが戦争の理不尽さだ。怪我人を手当てすることも裏切り者扱いされてしまうような戦場の現実。着たい服も選べず、食事の時間も自由に決められない難民収容施設での暮らし。ふいに思い出される故郷の凄惨な戦場と、自分だけが生き残ってしまったという罪悪感。泣きじゃくる母親。家父長としての父親が感じる家族を守らなければという重圧。父親がマディーナを縛り付けるような言動をしてしまうのも、家族を失うかもしれない恐怖があるからこそに思えてならない。「何かすごく悪いことが起きると、それが現在にまで深く食いこみすぎて、いつまでたっても過去にならないことがある。安全な新しい世界のなかまで、それがくりかえしなだれこんでくる。招かれざる客として、いつまでも残る」(二二九­二三〇頁)の言葉が示すとおり、戦争が、長期にわたり難民と認められない状況が、心を傷つけ、家族を引き裂くように、日常に境界線を引いてしまう。
 日常と戦争のあいだにある日々のなかで、「わたしは寒気がした。そして感じた。ぜんぶ終わった、って。わたしのこれまでの人生すべてが」(二六五頁)と思ってしまうような、もうどうしようもない、という状況がやってきても、マディーナは言葉を綴るのをやめない。笑顔でよいことが起こるのを待っているのではなく、大泣きしたときも、言葉が出てこないときも、とにかく書く。おかしいことにはおかしいと言う。そして周囲の人にも助けを求めながら行動してゆく。戦争に自分の感受性を奪われないために。自分はどう生きたいかを問いかけながら、自分自身の手で人生を選択してゆくために。
 「船をあやつるのは、わたしなんだ」(三〇一頁)というマディーナの宣言は、「あなたはどんな世界で、どう生きたいのか」という問いとなって、わたしたち読者の思いを引き出す。自分自身の人生を選び、進んでいく権利があるはずなのだ。わたしにも、あなたにも、世界中のどんな人にも。
 戦争や紛争から遠いと考えられている日本でも、令和五年の難民申請者数は一万三八二三人にのぼった(出入国在留管理庁ホームページ https://www.moj.go.jp/isa/publications/press/07_00041.htmlより)。多くの人がマディーナのように、難民認定を求めている現状がある。
 戦争や難民認定の問題が自分自身の体験や思いと結びついていなければ、「どこか遠くで起きている関係のないこと」と感じてしまうのも無理はないのかもしれない。作者のユリア・ラビノヴィチはその現状を憂い、難民収容施設での心理カウンセリングの通訳経験や、幼い頃のウィーンへの亡命といった自身の体験を登場人物に託しながらこの物語を書いた。作者自身が物語に託したように、マディーナの言葉を辿るなかで、あなた自身が見いだした体験や言葉が、戦争や難民問題と深く結びつくことを心から願っている。
 (翻訳者/ライター/車椅子ドレスモデル)

「図書新聞」No.3663・ 2024年11月16日号に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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