詩と人の気持ちと詩の読み方
詩は日記ではないので、読み方が特殊だと思われます。でもnoteのコメント欄を見てると、特殊ではなく日記的な事実や叙述として捉えている人も居ます。
詩を読み
その人を理解してあげよう
そしてあわよくばアドヴァイスを……
みたいな思考なのかな?
ぺっ
甘ちゃんがよ
以前にも書きましたが、自身への固着の為に似たような事を書きます。
なぜ上述したようなアドヴァイスマンが発生するかというと、道徳的な教えや国語の授業に原因があるかもしれません。
【その人の気持ちになって考えてみましょう】
【この時の作者の気持ちを答えよ】
人生の早い段階でこういうのをやらされます。
『人の気持ちなんて理解できるワケねーだろ‼️』なんて叫ぶ先生は居ません。
人ってのは、適度な話題(ほどほどの難易度の問題提起など)を提供したら、途端に饒舌になるでしょう? 自他共に憶えがある筈です。
考えがまとまらない! 話題変更。
でさ、たとえば私が『夕日キレイだなぁ〜』って感情をもとに詩を書くとするじゃん?
それを第三者が読んで『あの日ヨソの家の軒先から流れてきたカレーの匂いがした時間帯(放課後ぐらい)の空気感や肌感覚を一瞬思い出した』とする。
もうこれがゴールだと思うんよね
こうなりゃアドヴァイスもクソもねーだろ❓
🔔『ヴァをやめろ、ヴァを』
つまり詩とは、心を饒舌にさせる為にある。
普通の話題が『言葉にとっての』なら、詩は『感覚にとっての』という具合。
それをさ、『詩の作者と同じ地平になるべく立って作者の人生とか気持ちを想像するぞ〜! あと辛そうだからアドバイスもしよっと!』って考えるのは納得できんのよ。いい子ちゃんに育ちやがってよ。
人間ってのは、おそらく『事態の矮小化』を暗に望んでいる。ホラーやスプラッター映画を好む人は、そういう動機の場合もあるらしい。より凄惨なモノを観れば……ってさ。
個人的な経験としても、『もっともないい子ちゃんアドバイス』より『近しい経験』のエピソードを話された方が溜飲下がる。
まぁ好みよな。『自分語りすんな/私の話題を奪うな』ってタイプもあるだろうし。
で、作者の気持ちを知ろうとするアプローチも完全に否定……は、しないけど素朴な疑問が湧くんよね。
詩を、ずっとそんな読み方で終わらせるのか
ってさ。
いや単純にさ、その思考を作者(他人)の理解にあてるより、自身の想起の種にした方が楽しいんじゃねーのって。
わかるけどね……なんか自動的に『作者の気持ちとは』みたいな思考になるの。その想像に対する回答を求められてきたし、それが道徳的だとされてきた。他者を理解(?)し、手を取り合う行為が。
だからこそ振り切りたい
ネットでは特にさ、たとえば中学生ぐらいの子が『この歌を聴いて当時のアレコレを思い出した』的な自分語りをしたら……まぁ揶揄されるよね。
『くっせぇヤツ』って
私は全然アリだと思うが、浸りすぎて誇張が入り混じったような語り口自体はよろしくないと思うね。
『こんな経験した自分……素敵でしょ?(みてみて❗️)』みたいにさ。
つまり思考様式は否定しないが、表現方法がアレだねって話。
アドヴァイスマン『ふへへ……辛そうだね……お、おいどん的にもなんか 理解るから、こういう場合はこういうのがオススメだよ……ふへ』
🔔『どんだけ嫌いなんだよ……』
いやなぁ、もっと【凛】としてろよって思うんだ。
たくさんたくさん咀嚼して、澄んだ眼で読めねーの? って。
理想はさ、読んだ人が『な、なんだこの……言葉にできそうにない感覚は……⁉️』って感じだけど、副次的というか……それは意図になるから避けたいけど……えっと……『不思議がギリギリ言葉になった』って具合の詩をね……書きたいなぁって。
📚『ではどうぞ(唐突)』
えっ⁉️ が、がんばる
……
……
(๑•ૅㅁ•๑)『今週晴れそうだな』
📱『もうひと声❗️』
🔔『はい』
ダメだ。やはり詩が書けない。
『それは理性の賜物では❓』と邪魔されている。言葉という理性とその先の感性の微妙な危うい変な部分の抽出が足りてない。
『〜だから次はこうだ。〜だから次は』と理性が言葉を紡がせてくる。理屈や理性という橋では彼岸に行けぬというのに……悔しい。
🔔『それでも?』
そうだ。
私はそれでも言葉により進む意志をより強めた。お水のピチョンピチョンがやがて岩をヒエ〜ってさせるその日まで。
言葉という目に見えぬ【0】と【1】が、どーにかこーにかして……なんかあの……
🔔『……はい』
アドヴァイスおじさん『ふほっw 言葉を二進数的に捉えるとはw まあ言語という意味では――』
(。-∀-)『はい』
【多分それっぽいかな〜って詩】