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濡れた歩道、雷の音、火曜日現在

結局のところ、やはり、とアンダーソンは言った。
なるほどねえとわたしは言って、アンダーソンもそうなんだよと言った。
一旦、言ったを放り出して、いたたと言った唇を炒ってみた。
肉の焼ける匂いが食欲を削ぐよとアンダーソン。

マスコミの莫迦騒ぎにうんざりしているような時に、常套句のようなものじゃなくそれを表現するいい言葉がないものかね。
曇り空はアンダーソンに尋ねるが、アンダーソンは下唇を前に突き出しただけだ。変則的なリズムで。

食器洗い用洗剤、ふにゃけたスポンジ、自分で作るお手製の締め切り、かくれんぼの上手な本の栞、夜から朝にかけての雷の音。
意味はあまりに仔細すぎて我々を疲れさせてしまうのだよ。猫伯爵は肩についた猫の毛を、かりかりの骨のような人差し指と親指の指先でつまみあげる。だから描写に時折は背中をもたれかけさせねばね。

ねばねばのものといえば、納豆よりおくらです。この時期はとくに。
おくらに出汁をまぜて、ねばねばあーっとしたら、リビングですこしだらけます。左肩を下にして手足で上下でKをふたつ作るようにして。
扇風機のまわる音がして扇風機を切ろうと起きたら、雨でした。

窓をあけると雨と湿った植物の匂いがして、わあと声を出さずに心で思う。下の公園で子供たちが雨から避難する声が聞こえる。床に落ちている何かのゴミを指でそっと触ると、ここで息絶えた小さな虫の死骸でわたしはその子をひろいあげてどこに移動するべきか悩む。
足の裏についてしまうのも嫌だし、ゴミ箱は違うし、トイレに流すのも違う気がする。虫たちは葬儀はどうしているんだろうか。結局はアンダーソンの教えに従って、つっかけを履いて近くの土の上まで運んだ。
あしくびが、すこしぬれた。

話さないものが好きなんです、と言ったあの人の美しい横顔を思い出す。その奥にあった姿見鏡とペアで。車のエンジン音がする。どこかへ行く人の足音。わたしはどこにもいかない。今日はということだけれど。
請求書は届きましたか? 夏バテはしていませんか? SNSを閲覧できる時間は本日はあと五分ですか?

アンダーソンのカールした金髪を、人差し指でそっと持ち上げる。それが濡れていることを知って、匂いを嗅ぐとシャンプーの匂いがした。市販のシャンプーは石油でできていて身体に悪いのだそうだが、わたしはシャンプーのあの匂いを嫌いになれない。
そういうと、曇り空は本から顔をあげた。その本は今は閉まってしまったシャッター商店街にあった、中央ブックセンター(何の中央なのかは結局わからずじまい)で買った本でタイトルも著者名も日焼けによって消されていて何の本なのだか皆目わからない本だ。

夕食、何にする?
曇り空の質問には誰も答えなかった。
アンダーソン、と振り返るとアンダーソンはおらず、アンダーソンはどこ? と曇り空の方を向くと曇り空もいなかった。
猫伯爵のいる部屋をあけたらがらんどうで、窓から薄紫の夕闇が忍び込んで本棚の近くの床にはいつくばっているのが見えただけだ。

ああ、そうだ。この家には最初からわたし以外いなかったんだった。
古びた本を閉じて、キッチンに行った。シンクでは昼食に使った皿が秋口のプールのように水をためていて、わたしは中学校のプールサイドを思い出す。プールの近くにあった玄関も、理科室も、平屋建ての部室棟も。
部室棟の裏にある視聴覚室はなんだかいつもひっそりしていて、わたしは少し親近感をもっていた。

勉強をしないで、ルールも守らないで、学校にいけたらいいのに。
誰もいない学校で、ひんやりとした視聴覚室で、幽靈とか七不思議のこととかを思いたい。大理石でできた階段を歩く誰かの足音や、遠くで鳴るバットがボールを叩くキンキンした音を曇り空に混ぜ込んで。
市役所のひんやりした薄暗さもいい。だから次は市役所に潜り込んでみようか。

自分の幼稚な思いつきに唇を緩ませて、脳の片隅で切り干し大根の良い食べ方がないか考えている。ああ、そうだ。おくらが。とひとりごとで唇をしめらせて、しんなりしたおくらを内包するボールを冷蔵庫にしまった。

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