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詩日記 26

 弐○廿弐年 伍月 廿三日
 とおい、とおい記憶が
 急に ふっと 立ち昇る
 さっきまで楽しそうにしていた
 あの人が なにかの拍子についた
 休止符のようなため息のように

 過去のいつか
 愛おしい微笑みの上で
 ぼくは ただ あまえていた
 花のような薫りに
 髪の毛を撫で付けられて

 姉のような 母のような
 その女性は
 とても小さな声でしか 話さない
 ぼくと彼女だけに聞こえるような
 小さな
 声

 それがぼくはとてもすきで
 なぜかというと
 彼女とはなすと はなすことすべてが
 内緒話のようだから

 ぼくはこの女性ひと
 とても愛していて
 彼女もぼくを愛してくれていた
 バスは目的地へと まっすぐに向かい
 ぼくたちはゆらゆらと 揺れながら
 愛の振動の中で 内緒話をしていたのを
 克明に覚えてゐる
 
 この女性ひとは一体
 だれだったんだっけ?
 とても愛していたひとなのに
 ぼくは思い出せないのです

 この身体で生まれてから一度も
 そんなひとには会ったことがないのに
 ぼくは確かに彼女を愛していて
 彼女との思い出を懐かしんでいるのです

 とおい、とおい記憶は
 ふっと 突然 立ち現れて
 そしてふわりと 輪郭をうしな
 哀しそうに泣いていた あの人が
 なにかの拍子に笑った
 奇妙な笑い声とよく似て

 彼女は誰なのだろう
 バスはどこへ向かっていたのだろう
 ぼくはなぜ 悲しいのだろう
 わからない
 楽しそうにしていた あのひとが
 急についたため息の理由や
 泣いていたあの人が
 なぜか笑った 笑い声の意味のように

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