「現象学」を学んでから「陽明学」を考える
以前、上海に住んでいたときに陽明学の本を何冊か読んだことがある。
西洋哲学は真理の探求を、中国思想(哲学)は、人生どうよく生きるか?を中心的な課題にしている。
日本でも知られている陽明学とはどのような思想なのか?
『真説・陽明学入門』によると陽明学とは、
「心の陶冶する、鍛えることの大切さを主張した教え」
「万物一体の考え方を理解し、心の中の葛藤をなくし、不動心を確立する教え」
というものになる。
**
私は以前、修士課程で現象学を学んだ。
現象学の考え方を身につけてから、改めて陽明学を学ぶと、まず根本的な疑問が思い浮かぶ。
以下、現象学的に陽明学を吟味してみたい。
陽明学はそもそも、性即理という朱子学のアンチテーゼとして生まれた。本性として、善である人間であるが、身体というお荷物の影響で、善を発揮するには修行をしなくてはならない、というもの。
一方で、陽明学では「心即理」で、心は常に「善」を理解しているということが起点になる。
心即理、つまり「よい」ことは、自分の心の声を聞けばわかる、というような思想だ。
「致良知」も陽明学の重要なキーワードであり、「良知」を致す、という意味。善を完全に理解している良知(心)に従えばよい、という教えであり、外に正解を求めずも、自分の心に聞けばわかるということ。
さて、これについて現象学ではどう考えるか?
現象学の最重要課題は、認識問題だ。
正しい、絶対、客観といわれるものの根拠を問うと、これまでの哲学では、どこかで論理の飛躍が生まれる。つまり、われわれは主観から抜け出せないにも関わらず、主観の外の客観に的中しようとする。
現象学ではこの矛盾を解消するため、主観の中に、主観ー客観図式を見出す。こうすることで、主観が客観を掴むという不可能な営みは、主観の中でどのような条件で客観といわれるものが構成されているかを検討する営みに変更される。
**
さて、現象学的に陽明学を考えると、
「良知」に従えばオールOKということの内実がわかる。
われわれの意識の流れを反省してみると、そこには常に、感情的な善悪があることに気づく。
今日は家でゴロゴロしようかと考えると、「いやそれはだめだ、先週もそうだった」などという思考が出てくる。さらに考えると「いやでも、年末だし、今年は仕事で頑張ったし、大丈夫だ」ということも出てくる。こういうのが続き、最終的にどうするべきか、感情をベースに納得感が生じる。
そういう根拠を提供する最後の底板が「良知」なのである。
「良知を致す」とは、つまり、そういう感情が納得するまで考えをめぐらすことだ。
でも、少し視点を引いてみると、その心(良知)が何かしらの方向を与えるのは理解できるが、それが善といえる根拠はなにか?
誰の視点で善なのか?
私という知識も経験もない不完全な主体から、善がわかるのか?
結局、これはトートロジーなのである。
自分の人生は、私の主観の体験であるが、そこにおける善悪の根拠は、教科書に書かれた物理法則でもなく、日本国憲法でもなく、ただ、自分の内にある感情的なムードなのだ。これを「良知」と呼んでいるのではないか。
誰でも、最終的な善悪判断の根拠はここにある。
どんな権威や、どんなに尊敬する人物からの助言などであっても、それがいいと思うか悪いと思うかの最終根拠はそこにある。
現象学的に考えれば、一個人が「善」や「悪」の判断をする根拠は自らの内にある。
**
心(良知)は善を理解しているからといって、ビジネスを始めようとしている自分に、具体的なビジネスプランを与えてくれるわけではない。
ただ、ビジネスの準備をする中で、「ここは詰めが甘い」とか「こんなの本当に受け入れられるのか」とか「何かが違う」というような、感情をベースにしたフィードバックは、心の中に見出すことはできるだろう。
心が全てを導いてくれると聞くと、何か具体的な計画を与えてくれるような誤解を生じさせるが、陽明学で言われているのは、こうした感情的なフィードバックのことだ。
そして、陽明学の正当性は、王陽明自らがそのように生きてきて、人生がよくなったというような経験に依る。わかりやすく科学的なアプローチをとっていないが、そのような自己の内的な経験がエビデンスになっている経験則なのだろう。
それが、朱子学の批判から生まれていることで、説得力がまして多くの人に共有されていったのではないか。