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【教育】従事者必見!「自分で考えること」の境界線
教育において、指導者が何でもかんでも細かく教えすぎることは、批判されかぎだ。
その理由は、
なぜ学ぶのか?そのために具体的に何に目標を置いて、何をすべきか、ということを思考する力を奪うから、
というもの。
これについて、みなさんはどう思うだろうか?
仮に、テニス選手が、フットワークを良くするために、そのために例えば、コーンを置いたジグサグの道をできるだけ早く走り抜けるというトレーニングがあったとしよう。
彼、または彼女がこれを言葉の自動機械的に、取り組んで、最初に30秒だったのを20秒でこなせるようになった。
その後、この選手は、テニスにおいても、フットワークが飛躍的によくなり、試合にでも勝てるようになった。
というようなこともありえる。
テニスの試合に勝つ、というのは、秒数のような簡単な数値に還元できない。
だが、そのコンポーネントであるフットワークの一部であればわかりやすい指標に置き換えることができる。
テニスに勝つ、ということであれば、それは複雑すぎて、どのような要素があるのか、世界の名コーチであってもわからない。
でも、その要素要素であれば、数値化のようなわかりやすい「作業」に置き換えることができる。
死にものぐるいの選手は、そのような明らかに成長性がわかるもののほうが取り組みやすい。
複雑性が極まりない「勝つ」ということについては、そのために努力することは、腰が重いかもしれない。
しかし、こうしてフットワークを身に着けた選手は、「勝つ」ためのその他の要素がわからなくて、低迷するかもしれない。
だから、そのフットワークトレーニングはよくなかったということになるのだろうか?
或いは、「勝つ」ために少しでも前進したといえるか?
はたまた、それは短期的な成果で、長期的にみたら思考力のない選手に近づいたということになるのだろうか?
このような問題意識から、いわゆる自分で道筋を発見しコミットしていくことを促すコーチングのような手法が生まれている。
でも、未知の領域で、そのようなわかりやすい且つ「勝つ」にも繋がりうるような有効なトレーニングは、その選手はわからないだろう。
もしかしたら、自分でもっとすごいトレーニングを編みだすかもしれないが、そうでなく彷徨い疲弊する人の方が多いだろう。
教育に携わるみなさんは、わかりやすい目標を設定していくことについて、どのように考えるだろう?