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複数のプロジェクトゲームとしての人生論

人生とは、「生まれ」という所与の降ってきた「手札」をベースにした、複数のプロジェクトをゲームとして行うゲーム、として捉えると楽しめるのではないか?

プロジェクトはゲーム


一言で言えば、同じプロジェクトのメンバー内では明確な善悪の基準があり、官僚組織的な序列があり、みんなで協力して価値創造をするゲームである。
つまり、プロジェクト内であれば、プロジェクトの目標に向けて、互いに干渉しあい、コミュニケーションも沢山とる。

逆にいうと、同じプロジェクトを共有していない人には、勝手にアドバイスやダメ出しをするのはタブーとなる。
前にそれについては以下に書いた。

プロジェクトがゲームとみなせる理由は、その目標や目的があるからだ。明確なものとそうでない曖昧なものもあるが、何もなければプロジェクトとしてまとまりようがない。目標があれば、そこには善悪の基準が生まれ、その中で推奨されることとだめなこと、ルールが出来上がり、ゲーム性を帯びる。

様々なプロジェクト

ビジネスはわかりやすい。例えば、トヨタ自動車で働くサラリーパーソンなら、良い車を作るというプロジェクトである。

しかし、もっとわかりにくいものもある。

それは、家族のプロジェクトであったり、パートナーのプロジェクトというのもある。パートナーであれば、一緒に人生を支え合い、体験をともにするとかそういうプロジェクトである。

ゲゼルシャフト的な明確な目標ベースのプロジェクトもあるし、ゲマインシャフト的な所与的な結びつきに依るプロジェクトもある。

生まれの偶有性「手札」を生かしたゲーム

人は生まれた時点で、遺伝子的な、生物的な特徴を持ち、社会環境も何かしらの与えられたものがある。生まれた地点から、物心がつくくらいまでは、自分の意思がほぼ無効な、所与であり、降ってくる偶然である。誰でも思ったことがある「なぜ私はわたしなのだろう」問題である。

誰しも、得意なこと、苦手なこと、もとから持っているもの、持っていないものがある。そういう基盤から、興味を持ったり、得意となるプロジェクト(ゲーム)に参加していくことになる。

現代社会の課題

現代の問題は、仕事のプロジェクトしか持たない人が多いということではないか?

テニス仲間とか趣味の領域のプロジェクトでもいいし、ハイデガー研究のプロジェクトでもいい、人生の大半の時間を使ってきた仕事というプロジェクトがなくなることで、取り込むプロジェクト(ゲーム)がなくなって孤独化する人が多い。

私が心からコミットしたいプロジェクト

みなさんはどんなプロジェクトに参加しているだろうか?
前述の通り、車を作るプロジェクトのようなわかりやすいものだけではない。
昔の友人と、これからどう生きるかを考えるプロジェクトを、気づかずやっているかもしれないし、英語学校に行っている人は、先生と英語力UPプロジェクトをやっていることになる。

私がやっている(といっても具体的な活動はできていないが)、そして今後やっていきたいプロジェクトは、自由の相互承認を社会で実質化することだ。それについては過去に書いた↓

人生を、このように複数のプロジェクトのゲームと考えると、見通しがよくなるかもしれない。


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